宋史卷四百二十三 列傳第一百八十二 李韶

李彌遜の曾孫、字は元善。嘉定四年(1211年)進士。史彌遠・史嵩之の専権に対し、済王竑の名誉回復や君子小人の分別をたびたび上疏し、殿中侍御史などを歴任して史嵩之の再登用に強く反対した直言の臣。淳祐年間に礼部尚書に至り、晩年は祠禄を経て75歳で死去した。

年表(8件)

出自と若年期

  • 李韶、字は元善。李彌遜の曾孫。父・文饒は台州司理参軍として「私の司臬の隠徳は後に興る者があるだろう」と常に語った。韶は五歳で梅花の賦を能くし、嘉定四年(1211年)兄・寧と共に進士に及第。南雄州教授、広州の校文にあたり権力者の私情を拒む、慶元丞相史彌遠が推薦した士も学職に与らせず、袁爕が学宮の射圃拡張を求めても許さず、爕はかえって韶を敬うようになったという。廉勤で推薦され主管三省架閣文字、太学正、太学博士を歴任。

言論官として

  • 封事を上げ濟王竑の獄を諌め彌遠に切実な書を送り、太学生寗式を捄って学官に迕らい、通判泉州に外補。知道州では周惇頤の故居を修葺し子孫を学宮に録した。紹定四年(1231年)行都の火災・星変に応詔上言、国子監丞・知泉州兼市舶を経て端平元年(1234年)召され太府寺丞、都官郎官、尚左郎官を歴任。
  • 右正言として、国事と辺防を丞相鄭清之・喬行簡に専委すべきと提言、兵を汰し財を節すべきこと、史嵩之と王遂の和戦異論の不成功を論じ、遂を要藩に出し嵩之を辺境の実務に配すべきと請う。史宅之が袁州守になろうとするのを同僚と再三弾劾するも報われず、殿中侍御史として、同僚四人のうち自分だけが留まったことに疑念を呈し、国柄の陵夷・士気の委靡・主勢の孤立・宗社の阽危という「三漸」への懸念を強く述べた。
  • 魏了翁が督府を罷され祠を予されると、了翁の忠言と功績を訟え召還を願い、女官呉知古・宦官陳洵益の弄権を弾劾した。帝は怒って韶を殿陛から退けたが、韶は明堂祀典の雷電で二相が免ぜられたのを機に権工部侍郎正言、起居舎人として再び洵益・知古を疏したが報われず、三たび辞して許されなかった。集英殿修撰知漳州として亷平を称され、稽提官楮の弊を訴えた。嘉熙二年(1238年)召され翌年上疏して和戦・楮劵下落・物価高騰を憂い、自ら進めない理由として、史宅之の再登用への懸念、聖断による人材の一変への配慮、史嵩之への非難と自らの立場の齟齬、女官・宦官弾劾後の風聞の四点を挙げた。

史嵩之との対立

  • 詔により趣召され戸部侍郎、禮部侍郎に転じ、嵩之は密使を送って濟邸国本の議論を控えるよう伝えたが韶は応じず、上疏して「天下事は陛下が自ら任じ力を尽くすべき時である」と説いた。この疏の内容が史嵩之の「世卿」を暗に批判するものとみなされ、嵩之はこれを不快とし「治春秋の人の言は毒だ」と評したが、この頃杜範も同じく亷直で「李杜」と称された。
  • 兼侍講、吏部侍郎兼中書舎人を歴任し、淳祐二年(1242年)道揆の地は善類を愛し公議を畏れることが権勢を畏れることより重んじられるべきと説いた。また濟王国本・宮媪の件を三たび上疏し祠を求め、寶章閣直学士知泉州、淳祐元年(1241年)再召され禮部侍郎、権禮部尚書に至った。
  • 入見して疏を進め、君子小人の分別・不諱盡言の必要を説き、陛下が謀るところが嬪妃近習、信じるところが貴戚近親であることを批判、国戚命婦の宮廷への求入を禁じる旧令の厳守を求め、世臣貴戚の並進が示す偏りを指摘した。財政・兵事について「椎剥州縣脧削里閭」を続けても治乱安危の数には補いにならないと論じた。老媪(濟王生母)への恩沢が及ばないことも訴えた。
  • 兼侍読、翰林学士兼知制誥兼侍読を辞退するが許されず、嵩之が喪を終え再用の兆しがあると、殿中侍御史章琰・正言李昴英・監察御史黄師雍らが激しく弾劾し嵩之は落職・予祠となった。韶は従官と共に春秋の桓公五年の故事を引き、天王の討伐に従わなかった三国の例を挙げて「陛下が姦臣の罪を正せないのは、大臣百執事が輔佐しなかったためだ」と論じ、嵩之に致仕を命じさせた。その後嵩之が観文殿大学士に進むと韶は再び力争、琰・昴英が言職を罷免されるとこれを留めるよう疏したが、韶自身も七年に十度上疏して去り、端明殿学士提挙玉隆宮となった。
  • 淳祐八年、再び召されるも辞し、玉隆・万寿観の祠を経て十一年に祠が満ちて再任、75歳で卒した。忠厚純実、平粹簡澹で声色貨利に溺れず、一室に黙坐し門に雑賓を入れなかったという。