宋史卷四百二十二 列傳第一百八十一 李知孝

経歴と讒言

  • 李知孝、字は孝章。参知政事李光の孫。嘉定四年(1211年)進士。右丞相府主管文字となることを恥じず、幹辦諸司審計司を経て監察御史に拝され、寶慶元年(1225年)八月、上疏して沽名激論の士大夫の偽善を批判した。実は真徳秀を暗に貶め、洪咨夔を二秩鐫罷、胡夢昱を追毀除名し象州に覊管させた。知孝は魏了翁に「この論議は自分ではなく相府から出た」と語ったが、その情状が変詐であったと記される。
  • 右正言として、後学が義理を講じず綱常を識らないと批判し、真徳秀の主張を「聖語を改竄し邪説を惑わす」として追削流竄を求め、これを榜に鏤って天下に布告した。趣召された者の引延しを咎め、傅伯成・楊簡・劉宰らが召しに応じないことを非難した。張忠恕の落職・鐫秩・罷郡も奏し、殿中侍御史から侍御史に昇り、右司諫、右諫議大夫、工部尚書兼侍読、兵部を歴任。
  • 理宗親政後、寶謨閣直学士知寧国に出されるが後省が駁し、嵩山崇福宮提挙に留まった。端平初、監察御史洪咨夔・権直舎人院呉泳が交章して弾劾し鐫秩罷祠、王遂の弾劾で瑞州に移された。名家の出でありながら苟しくも仕進に励み、朋党を率いて国を迷わせ賢者を排斥し尽くし、小輿に乗って醉って従官の家を訪ね、際限なく財を貪った逸話が伝わる。紹定末に中丞への復帰を求めたが、世は知孝と梁成大・莫沢を「三凶」と呼び、貶死したことを天下が快哉と喜んだ。

史論

  • 『本政書』を読んで初めて林勲の井地の学が周到であったことが分かる。劉才邵は権姦の時代に名節を全うした。許忻の和議反対の論はもっとも忠懇であり、それゆえに国を去ることになったのは悲しむべきことである。應孟明・曾三聘が韓侂胄に汚されなかったのは、孔子の言う「歳寒くして松柏の凋まぬを知る」に等しい。徐僑の清節、度正の淳敏、牛大年の亷正、陳仲微の忠実は、いずれも大用されなかったのは惜しむべきことである。程珌は富貴を窃取し、梁成大・李知孝は史彌遠の鷹犬となった、その悪名は永く消えぬであろう。