出自と経歴
- 陳仲微、字は致広。瑞州髙安の人、先祖は江州旌表義門に居した。嘉泰二年(1202年)進士。莆田尉となり、守令が欠員となった際、饑饉で部卒と饑民の乱を鎮め、主謀者を斬り閉糶や強糴を抑えて境内を鎮めた。囊山浮屠と郡学の水利争いを裁定し、後に浮屠側の首僧が病死したのを自らの罰と噂されたが、仲微は「私に何の心があろうか」と語った。
- 寓公の推薦状を留め置くも私情に流されず一年後に返却、崇陽県知事や海塩丞では冤獄を裁き、通判黄州では軍需供給に不足を出さず「職分に過ぎない」と辞退した。通判江州、幹辦諸司審計事、知贛州、江西提点刑獄を歴任するが丞相賈似道に迕らい監察御史舒有開の弾劾で罷免された。
中央での言論
- 知恵州に起用され、太府寺丞兼権侍右郎官として輪対で「禄餌は中才を釣れても豪傑を啖わせられない、名航は猥士を載せられても英雄を陸沈させることはできない」と述べ賈似道の怒りを買い、罷免された。
- 国勢が危機に瀕したとき封事を上奏し、襄陽陥落の責任は庸閫・疲将だけでなく君相にもあると論じ、代言の書が体を失い、翹館に識見ある者が少なく、迎合が習い性となっている状況を批判。将軍を制する権限が実質中央から出され、責を負う者がいない構造を分析し、「城は兵なくして敵に与えられ、兵は戦を知らず将に与えられ、将は兵を知らず国に与えられる」と極言した。
- 江東提点刑獄に転出、徳祐元年(1275年)祕書監、右正言・左司諫・殿中侍御史を歴任。益王即位後、海上で吏部尚書給事中に拝された。厓山の敗北の後、安南に逃れ四年後に卒す、享年72。その子文孫が安南王族益稷とともに元に降り郷導として南征軍に加わったことに安南王が憤り仲微の墓を暴いたという。
- 富貴の家に生まれながら質素な衣食を旨とし、六経・諸子百家から天文地理・医薬卜筮・釈老の学まで広く渉猟したという。