経歴と史彌遠矯詔への関与
- 程珌、字は懐古。徽州休寧の人。紹熙四年(1193年)進士。昌化主簿、建康府教授、知富陽県、主管官告院、宗正寺主簿、枢密院編修官、権右司郎官、祕書監丞、江東転運判官を歴任。陛辞の際、寧宗が宰臣に「程珌をどうして補外に容れられようか」と述べ復職させた。浙西提挙常平、祕書丞、祕書省著作郎、軍器少監兼権左司郎官、国子司業兼国史編修実録検討兼権直舎人院、起居舎人、権吏部侍郎直学士院兼同修国史実録院同修撰兼権中書舎人、禮部侍郎兼侍読、権刑部尚書(封休寧縣男)、禮部尚書兼同修国史実録院同修撰兼権吏部尚書を歴任し、翰林学士知制誥兼修玉牒官に拝され子爵に進封された。
- 五度上疏して祠を乞い、煥章閣学士知建寧府、福建路招捕使、舊職提挙玉隆万寿宮を経て伯爵に進封、敷文閣学士知寧国府、知贛州(いずれも赴任せず)を経て新安郡侯に進封、寶文閣学士知福州兼福建安撫使に加えられ、再度祠を求め龍図閣学士、端明殿学士致仕として79歳で卒し、特進少師を贈られた。
- 十歳のとき詠冰の語で人を驚かせたという。直学士院の時、寧宗が崩じ、丞相史彌遠が夜中に珌を召したため一家は大いに驚いた。珌の妻は丞相王淮の娘で、不測の事態かと涕泣したが、彌遠が迎えに出たと知って涙を収めたという。彌遠と珌は共に禁中に入り矯詔を起草し、一晩で二十五の制誥を作った。かつて珌が政府に許された際、楊皇后が金一囊を珌に賜り、珌は辞退せずこれを受け取ったが、帰って見るとその価値は非常に高く、彌遠はこれを根に持ち、珌はついに彌遠と政を共にすることはなかったという。