経歴と忠諫
- 曾三聘、字は無逸。臨江新淦の人。乾道二年(1166年)進士。贛州司戸参軍、軍器監主簿を歴任。划車弩の製造の詔に対し、克敵弓の方が省費で有効と論じ製造を止めさせた。
- 光宗が重華宮に朝せず中外が疑懼した際、丞相留正に書を送り、正が事に及ばず去ろうとした時「今黙って退くのか、それとも今日言いにくいことを言ってから退くのか」と迫った。祕書郎に転じ、帝が玉津園に幸そうとするのを、人心の離反や敵の間諜に付け込まれる危険を訴えて諫止した。孝宗の病が革まると流言の激化を懸念して再び上疏。帝はこれに動かされた。
- 孝宗崩御の後、帝の疾により喪を執れず朝論が震撼する中「建儲以外にない」と主張、台諫から前日の疏で職を奪われたことを咎められても「今この時に諫言を避けられようか」と応じた。寧宗即位後、考功郎、知郢州を経て、韓侂胄が相となると趙汝愚の腹心とみなされ両官を追奪されたが、後に元官に復し祠差を与えられるも辞退。侂胄が誅せられ賢者が起用される中でも自ら求めず、嘉熙年間に没した後、特に三官を贈られ直龍図閣・諡忠節を賜った。