出自と経歴
- 徐僑、字は崇甫。婺州義烏の人。早くに呂祖謙の門人葉邽に学び、淳熙十四年(1187年)進士。上饒主簿となり朱熹の門に入り、熹はその明白剛直さを称え「毅」の斎名を与えた。祕書省正字・校書郎兼呉益王府教授、直宝謨閣江東提点刑獄を歴任するが丞相史彌遠に迕らい罷免。寶慶初、葛洪・喬行簡が祠を代わりに請うたが禄を受けなかった。紹定中に告老し、端平初に諸賢とともに召され、祕書少監・太常少卿として趣召された。
清貧と諫言
- 手疏数千言、感憤剴切に君前に迫り、羣臣の黒白を分けて隠すことなく述べた。帝はこれに慰諭し、衣履の垢敝を見て「卿は清貧だ」と言うと、僑は「臣は貧しくありません、陛下こそ貧しいのです」と答え、国本の不建・疆宇の日蹙・権幸の専横・将帥の不材・旱蝗・盗賊・経用の窮乏・民困・軍怨を指摘した。
- 女謁閹宦の専横を医者不在の重病に喩え、帝はこれに感動して次日、辺帥の無状を罷免し朋党を戒める手詔を発した。有司に中外の浮費節減を命じ、僑に金帛を賜ったが固辞。侍講として友愛の大義を説き、皇子竑の爵位復活、周敦頤・程顥・程頤・張載・朱熹の従祀と趙汝愚の配食を請い、寧宗はこれを許した。
- 金使が来た際、叔向が鄭を辞した故事に倣い国書のない使者は館外に置くべきと論じ丞相の意に迕らい、休致を求め帝は懇ろに留めたが工部侍郎を辞し続け、内祠侍読として就職、後に寶謨閣待制奉祠として卒し諡文清。学は真践実履を尚び、朱熹の書を割裂掇拾する当世の風潮を嘆いた。