経歴
- 劉才邵、字は美中。吉州廬陵の人。上世の鶚は太宗に召見されるも用いられる前に卒し、五代の文辞の卑弱を憤って揚雄の『法言』に倣い『法語』八十一篇を著した。才邵は大観二年(1108年)上舎釈褐で贛・汝二州教授、湖北提挙学事管幹文字、宣和二年(1120年)宏詞科合格、司農寺丞、靖康元年(1126年)校書郎を歴任。高宗即位後は親の老いを理由に帰郷し十年間閑居。
- 御史中丞廖剛の推薦で召見され祕書丞、駕部員外郎、吏部員外郎典侍右選事を歴任。宗室の宮観・岳廟注拟が遠方の者には行きにくい制度を改め、部からの依条注拟を提案し施行された。軍器監、起居舎人、中書舎人兼権直学士院を歴任し帝はその文才を称えたが、宰相に忌まれ知漳州に出された。城東に渠十四を開いて灌漑を興し数千畝を潤したという。両度奉祠の後、紹興二十五年(1155年)召され工部侍郎兼直学士院、権吏部尚書に至り、疾により祠を請い顕謨閣直学士に転じて卒し通奉大夫を贈られた。
- 気は和やかで容貌は恭しく、権臣専横の時代にも雍容として身を保った。著書に『檆溪居士集』。