宋史卷四百十九 列傳第一百七十八 劉伯正

劉伯正(字直卿)

  • 饒州餘干の人。父劉簡は丞相趙汝愬の客として慶元四諫の奏議を書き伯正に授けた。伯正は開禧元年(1205年)進士に挙げられ太平主簿に任じ棗陽軍通判、荊湖制置司機宜・両浙転運司主管公事に差し、軍器・将作・太府の三監主簿・枢密院編修官・兵部郎官・監察御史を歴任、明堂の祭祀で雷電が忽然と起こり執事者がほとんど列を離れる中、伯正は殿下に紳笏を正して立ち声色を動かさなかったため、帝は大任を期すこととなった。
  • 左司諫に転じ、兵籍の拡大により糧餉が困難になることを憂い軍食の予備を請い、銓選・財計・刑獄の積弊を論じ、治を願う心で治官を厳しく督励し、勤政の思いで計吏の法を厳しく察するよう請い、さらに辺備の申飭・流民の区処・姦盗の隄防の三急務を挙げ、帝はいずれもこれを善しとした。
  • 右正言に昇進、華文閣待制として広州知事兼広東経略安撫使を授かり、召見され金帯鞍馬を賜り転運使に改め、宝章閣直学士として太平州知事、礼部侍郎兼中書舎人として召され吏部侍郎兼侍講に転じ同修国史実録院同修撰兼給事中、権刑部尚書兼侍読、淳祐四年(1244年)端明殿学士・簽書枢密院事兼権参知政事、真の参知政事、監察御史孫起予の弾劾で罷免され資政殿学士・洞霄宮提挙、監察御史蔡次傳の弾劾で一官降格、のち旧官に復し致仕、死去、正奉大夫を贈られ少保を加えた。当時の評では、伯正は朝廷に立つに静重で浮薄を鎮め名誉を求めず用いる力を善く隠していたという。