宋史卷四百十九 列傳第一百七十八 余天錫

慶元府昌国の人、字は純父。丞相史彌遠の門下として仕え、理宗(趙昀)を沂王家の後継として見出し擁立に関わった人物として知られる。嘉定十六年(1223年)進士に及第して出仕、嘉熙二年(1238年)端明殿学士・同簽書枢密院事を拝命するなど累進し、晩年観文殿学士として致仕し死去した。弟の天任も高官に至った。

年表(2件)

理宗擁立の裏話

  • 慶元府昌国の人。丞相史彌遠が弟子の師として招き、性質は謹愿(慎み深く実直)で外事に一切関わらなかったため、彌遠は彼を重んじた。当時、彌遠は久しく相位にあり、皇子竑(趙竑)がこれを深く憎んでおり、廃立の意があったが、たまたま沂王家に後継ぎがなかったため、丞相はこれを利用して密かに継嗣を立てようとし、天錫に秋の帰省の際郷里で試験を行い、「沂王家に後継ぎがない、賢厚な宗子があれば連れてくるように」と命じた。
  • 天錫は江を渡り越の僧と同舟したが、舟が西門に着くと大雨となり、僧が「門の左に全保長という者がいる、そこで雨宿りできる」と言うので従うと、保長は丞相の館客と知り雞黍でもてなし、間もなく二人の子が侍立していた。全は「これは私の外孫です」と言い、かつて占い師が「この二人の子はのち大貴になる」と語ったといい、その姓名を尋ねると長は趙与莒、次は趙与芮であった。天錫は彌遠の依頼を思い出しその行いも良いと見て、彌遠に告げ二子を連れてくるよう命じられた。保長は大いに喜び田を売り衣冠を整え、心中で沂邸の後継となることを冀った。姻戚を集めその出会いを誇り天錫に引見させると、彌遠は善く相して大いに竒しとした。しかし計画が漏れたため都合が悪く、急いで復び帰らせた。保長は大いに恥じ、郷人もこれを密かに笑った。
  • 翌年、彌遠は急に「二子はまた来られるか」と天錫に問い、保長は辞退し遣らなかったが、彌遠は密かに「二子のうち年長者は最も貴い、君の家で撫育するのが良い」と諭し、二人を連れて帰らせた。天錫の母朱氏が沐浴させ字と礼儀を教え、習熟すると間もなく召されて沂王の後を嗣ぎ、のち帝位に即いた――これが理宗である。

出仕後の経歴と晩年

  • 天錫は嘉定十六年(1223年)進士に挙げられ、慈利県の税を監し籍田令に超授され起居舎人に進み、権吏部侍郎兼玉牒所検討官兼崇政殿説書に転じ、戸部侍郎兼知臨安府浙西安撫使に転じ、戸部侍郎試権戸部尚書としてともに臨安府知事を兼ね、詳定勅令官を兼ね、宝文閣学士として婺州知事に進みなお旧職、祠禄後寧国府知事に起用され、華文閣学士に進み福州知事、吏部尚書兼給事中兼侍読として召され、自らの出世の速さを危惧し礼部侍郎曹豳が用臣の急なることを批判した上疏を引き合いに、豳の遷官を延ばすことのないよう請い、帝はこれに従った。
  • 嘉熙二年(1238年)端明殿学士・同簽書枢密院事を拝命、のち参知政事兼同知枢密院事を拝命、奉化郡公に封ぜられ、資政殿学士・紹興府知事浙東安撫使、観文殿学士として致仕。母朱氏も周楚国夫人に封ぜられ九十余歳、天錫を宰相とする誕生日に間に合わず天錫は死去、少師を贈られ、のち太師を加え諡は忠恵。弟天任は兵部尚書に至り、兄弟は仲睦まじく貧しい時は更衣で外出し年を通して衾を共にした。従子の晦は尚書に至り全蜀を統率、義荘を設け宗族を支えたが、蜀での言動が理由で閬州知事王惟忠の死に絡む論があり士論はこれを軽んじた。