六君子と丁大全弾劾
- 永嘉の人。若くして貧しかったが才知に優れ、ある商人が彼の生まれた時を推して大貴の相があるとし、娘を娶らせた。太学に入り文名を得た。宝祐年間、丁大全が戚里の婿として権貴の盧允升・董宋臣に取り入り理宗の寵を得、殿中侍御史に抜擢され台において横暴を極めた際、宜中は黄鏞・劉黻・林測祖・陳宗・曾唯とともに六人で上書しこれを攻撃、大全は怒り監察御史呉衍に命じて宜中を弾劾させ籍を削り他州に拘管、司業は十二斎の生員を率いて冠帯を整え橋門の外まで見送った。大全はますます怒り、学中に碑を立て諸生に国政を妄議することを禁じ、以後上書する者は前廊生が看詳して検院へ報告すべきと命じた。これにより士論は一斉に六人を賞賛し「六君子」と号した。
- 宜中は建昌軍に流されたが大全が失脚すると丞相呉潜が奏して還らせ、賈似道が入相するとさらに彼らのために取り計らい、詔により六人はすべて省試を免除され赴任させられ、景定三年(1262年)廷試を受け宜中は第二人に及第。六人の中で宜中はことに時務に通じ、紹興府推官・戸部架閣・秘書省正字・校書郎を経て数年で監察御史に転じる。
- 程元鳳が再相した際、似道はその権力を侵されることを恐れ元鳳を排除しようとし、宜中はまず元鳳が丁大全の悪を放置し宗社の禍の基となったと弾劾、元鳳は太府卿に降格された。宜中も自ら外任を請い江東提挙茶塩常平公事、四年浙西提刑に改め、五年召され崇政殿説書、累進して礼部侍郎兼中書舎人、七年閩の帥が欠けると敷文閣待制知福州として任地に赴き民心を得、一年余で刑部尚書として入朝、十年簽書枢密院事兼権参知政事を拝命。
韓震誅殺と丞相就任
- 徳祐元年(1275年)同知枢密院事に昇進。二月似道が蕪湖で師を喪うと、宜中は知枢密院兼参知政事となる。翁応龍が軍中から帰ったので宜中が似道の所在を問うと応龍は知らないと答え、宜中は似道が既に死んだと考え上疏し似道の誤国の罪を正すよう乞うた。似道が出発する際、親信の韓震に禁兵の総括を委ねていたが、震が兵をもって帝を脅かし遷都させようとしているとの言があり、宜中は震を召して計事すると装い、壮士に鉄椎を袖に忍ばせ震を撃殺、似道に党しないことを示した。この時右丞相章鑑が夜逃げし、曾淵子らが宜中に丞相事の代行を求め、詔により王爚を左丞相、宜中を特進・右丞相とした。
- 四月爚が朝に戻ると議論が宜中と合わず、台臣孫嶸叟が潜説友・呉益・李珏の籍没を請うたが、宜中は「簿録は盛世の事ではなく祖宗も軽々に用いたことはない」と反対、珏はちょうど召されて入朝しようとしていたところに重刑を加えれば以後信を示せなくなると考えたが、爚は嶸叟の議に従うべきと強く争った。留夢炎が湖南から入朝すると、爚と宜中はともに罷政を願い、夢炎を相とするよう請い、太皇太后は宜中を左丞相、夢炎を右丞相とした。爚は平章軍国重事に進み、拝命の当日から民居を借り丞相府を宜中に譲った。宜中は上疏し「一度辞して一度受けるのでは天下の非難をどう解けようか」としてやはり去ろうとしたが、使者が数度遣わされ引き留められた。
出督をめぐる爚との対立
- 当初、張世傑らに四道から進軍させ、二丞相が軍馬を都督しながら自ら出督しなかったため、爚は一丞相を呉門に建閫させ諸将を護るべき、さもなくば自ら行くと請うた。宜中は恥じて夢炎とともに出兵を願う上疏をしたが辺事は公卿の議に付され決せず、七月世傑らの兵は焦山で敗れた。爚は上奏し、兵の重きは今二相が並んで都督し廟算指授しても臣にはわからないこと、六月出師の際諸将に統帥なく、呉門は京から遠くないのになぜこの請いをしたのかといえば、大敵が境にあり陛下自ら将とならぬなら大臣が督を開くべきだからだと述べ、今世傑が諸将の心力不一致で敗れたのは国家がいかに敗れることに耐えられるか知れないとし、自分の職も言も通らぬまま罷免を乞うたが許されなかった。
- 爚の子弟が京学生を嗾け宜中の過失数十事を挙げる上書を伏闕させ、趙溍・趙与鑑が城を棄てて逃げたのに宜中はこれを借りて私恩に報い、令狐槩・潜説友が城を降した罪を包苴で受けその羽翼となり、文天祥が兵を率いて勤王したのに讒言でこれを沮み、似道の誤国喪師を陽では罰すると請いながら陰では庇い、大兵が国門に迫っているのに勤王の師を京城に留めて派遣せず、宰相は出督すべきなのに畏縮して集議のみで実行せず、呂師夔の狼子野心を通好・乞盟に用い、張世傑の歩兵を水戦に、劉師勇の水兵を歩戦に用いるなど指揮を誤り事を敗ったと訴え、誤国は似道一人にとどまらないだろうと結んだ。上書が上がると宜中は去り、召しても至らず、爚が罷免されると臨安府に京学生の逮捕が命じられ、召しても至らなかった。太皇太后が自ら書を宜中の母楊氏に送り勉諭させ、宜中はようやく祠官として侍することを願い醴泉観使を拝命、十月壬寅ようやく参朝、右丞相となったが事すでに手遅れだった。
遷都の失敗と亡命
- 宜中は倉皇のうちに京城の民で十五歳以上の男子をすべて兵籍に入れさせ、人々はこれを笑った。十一月張全・尹玉・麻士龍の兵を遣わして常州を援けさせたが、玉と士龍は戦死、全は矢一本も放たず逃げ帰った。文天祥が全の誅殺を請うたが宜中はこれを不問とし、まもなく常州は破れ独松関に兵が迫ると隣邑は風を望んで逃げた。宜中は使者を軍中に送り和を請うたが得られず、群臣を率いて宮に入り遷都を請うたが太皇太后は許さず、宜中が痛哭して請うと太皇太后は装いを命じ乗車を待たせ百官の路費に銀を給したが、夕暮れになっても宜中は参内せず、太皇太后は怒り「私は最初遷都を望まなかったのに大臣が何度も請うたのでかえって私を欺くのか」と簪珥を地に投げつけ閤を閉ざし群臣の内引を拒んだ。実は宜中は翌日の遷都のため倉卒に奏陳が足りなかっただけであった。
- 宜中は当初大元丞相伯顔と軍中での会見を約していたが後に悔い果たさなかった。伯顔が兵を率いて皇亭山に至ると宜中は夜逃げし、陸秀夫が二王を奉じて温州に入り宜中を召すと宜中は温州に至ったがその母が死去、張世傑がその棺を舟に載せともに閩中に入り、益王が立つと再び左丞相となった。井澳の敗戦後、宜中は王を奉じて占城に走ろうとし、自ら先に占城へ赴き様子を見たが事が成らないと悟りついに戻らなかった。二王が幾度も召したが最後まで至らず、至元十九年(1282年)大軍が占城を伐つと宜中は暹(シャム)へ逃げ、のち暹で没した。
- 宜中は多術策な人柄だった。若くして県学生であった時、父が吏として賄賂を受け黥刑に処せられるはずだったが、宜中は温州の守魏克愚に書を送り貸しを請い、克愚は「狡猾な吏だ」として結局法に処した。のち宜中が浙西提刑となり、克愚が郊迎したが宜中は返礼の書に「部下民陳某」とだけ記し、克愚は恐縮して受け取れなかった。宜中は表向き礼を尽くしながら陰では克愚の落ち度を探ったが何も見つからなかった。のち克愚が賈徳生の官木を冒借した事件で似道の忌に触れ廃されて家居していたところ、宜中が入朝すると克愚の郷里での不法を極言し、似道は章鑑に命じてこれを弾劾させ厳州へ貶した。克愚の死には宜中の関与が大きいとされる。
史論
- 孔子曰く「才難し」とはまことにその通りである。理宗は在位が長く任命した宰相も実に多いが、その中で呉潜の忠亮剛直のような者はわずか数人に過ぎない。潜の議論はやや訐(あばく)に近いところもあったが、度宗の立太子に際し謀議が及んだ時、潜は正しい態度で答えた――人臣として顧望し子孫のために計を巡らす者にこのような言葉が言えるだろうか。程元鳳は謹飭であったが風節に乏しく、なお賈似道に忌まれた。江萬里は学問徳望が諸臣に優れていたが似道に籠絡されることを免れず、晩年やや鋭さを見せると排斥された。士大夫が不幸にも権姦と同朝すれば、自ら処するのは難しいものである。似道が江上の師を督視する際、国事を王爚・章鑑・陳宜中に委ねたのは、平時から自分に親しい者を選んだのである。爚・宜中は似道が出るとやや自ら異にしようとしたが、その敗北を聞くと勢いに乗じてこれを追い詰め、のち二人は自ら矛盾に陥った。宋の事はここに至って危急存亡の秋であり、当国者が交わり戮力してもなお及ばぬことを懼れねばならなかったのに、このような有様でどうして匡済を望めようか。似道は誅され、爚は死に、鑑は遁れ、宜中は海島に走り、宋は亡んだ。