地方官と直言の日々
- 徽州の人。紹定元年(1228年)進士、江陵府教授に任じられ、端平元年(1234年)江西転運司幹弁公事に差し、母の喪に服す。淳祐元年(1241年)礼兵二部架閣に転じるが父が老いていることを理由に側を離れず、太学正に転じ、祖父の諱により改め国子録、父の喪明け後太学博士に転じ、のち宗学博士に改め、詩礼を榮王府で講じ側から諷諫、王も心服して聴いた。輪対では世運の剥復の機や人主が天に法るべきことを極論し、理宗はこれを見て「古の遺直の風あり」と評した。
- 六年(1246年)秘書丞兼権刑部郎官に進み、七年権右司郎官を兼ね著作郎に転じてなお右司郎官を兼ね、輪対で時弊を指弾し当国者の忌に触れ、饒州知事に出される。饒州は水害に見舞われたばかりで、元鳳は民の疾苦を訪ね、昼夜心を尽くして城壁を修め義阡(共同墓地)を設け、誅求を寛め誣証を明らかにした。江淮荊浙福建広南都大提点坑冶に進み饒州冶司を兼ね、毎年の冬夏帳銀をすべて挙げて郡の税の不足分を補い、芝(めでたい印とされる菌)が治所に生じ、人々は治績のためだと言ったが元鳳は「五穀が実れば民が恵まれるのは当然のことだ」と答えた。召されて奏事するも辞退し許されず、右曹郎官に転じ、実学実政・国本・人材・吏治・生民・財計・兵威の八事を疏言した。
丞相への諫言と京城救済策
- 右司郎官を兼ね、監察御史兼崇政殿説書を拝命、丞相鄭清之が久しく専権し老いて任に堪えないため台官潘凱・呉燧が連名で弾劾したが清之は喜ばず二人を左遷しようとし、凱・燧は命を拝さず去った。元鳳は上疏し清之の罪を明白正大に指弾、凱・燧は召還された。明堂の祭祀に際し天に祈るには実をもってすべきで文をもってすべきでないと疏言、辺備は積玩(怠慢)の勢いを起こすべきと論じ、濫刑の弊も論じた。十二年(1252年)右正言兼侍講を拝命、祖父の諱により辞し右補闕として上疏、格心の学を論じ士大夫の風俗を革めるには士大夫の心術を革めるべきとし、文弊・辺儲・人材・民心・儲将帥・救災異まで尽く言い尽くした。
- 余晦が伯父天錫の恩に恃んで妄動、三学の諸生が闕に伏して上書しその罪状を訴え、司業蔡抗もまた力言、元鳳はその罪を数えて弾劾。晦を大理少卿、抗を宗正少卿とする案が奏上されると、元鳳は再度上疏し抗を留め晦を黜けて士心を安んじるべきと訴え、抗は司業を兼ね晦は郡に出された。殿中侍御史に進み侍講を兼ね、京城の火災に際し土木の無益な役を止め暴露の民を救い、僧尼の濫れた恩恵を移して顛沛の民に給し、寛大の政を行い億兆の心を固結し、俊乂を招く一方で私昵の濫恩を屏け奸私の貪黷を防ぐべきと疏言、言葉は多く懇切であった。
拝相と晩年
- 宝祐元年(1253年)侍読を兼ね侍御史に転じ、孝宗に倣うべき八事を疏言、名士二十余人を推挙、尚書吏部侍郎兼中書舎人兼同修国史実録院同修撰・侍読を兼ね、関を出ることを求めるも許されず、南郊の祭祀では執綏官として問答を尽くし、帝が西太乙宮に幸そうとしたのを力諫して止めた。三年(1255年)権工部尚書に転じ補外を強く求め、端明殿学士・同簽書枢密院事を特授。蜀の情勢と沅靖の急に際し朝廷は重臣を上流に出そうとし徐敏子を蜀帥に用い向士璧を鎮撫としたが、元鳳は荊南に兵を下し蜀を援けるよう請い、呂文徳を沅靖に移すよう求め、依前職簽書枢密院事兼権参知政事に進み、参知政事に進む。
- 右丞相兼枢密使を拝命、新安郡公に進封、御筆で慰留され数日を経てから治事を始めた。正心・待臣・進賢・愛民・備辺・守法・謹微・審令の八事を上疏。高宗・孝宗・光宗・寧宗四朝の国史が未完で、任尤焴にこれを領させ纂修を完成させた。丁大全が相位を奪おうと謀るに及び元鳳は力辞、観文殿大学士・判福州福建安撫使を授かるも力辞、依前職洞霄宮提挙。開慶年間の兵興に際し、人心を収め賞罰を重んじ民兵を団結させるべきことなどを手ずから疏言、まもなく平江府知事兼淮浙発運使に起用され、四度上章して免職を願い、三年御筆で急ぎ赴任を促され、修明局の米五万石を免除させた。特進・依前職充醴泉観兼侍読を拝命、度宗即位後少保に進み、三年(1267年)少傅・右丞相兼枢密使を拝命、吉国公に進封、言により免職、旧の少保観文殿大学士醴泉観使に戻り致仕を願うも許されず、四年観使を罷め少保観文殿大学士守にて致仕、死去。遺表が奏上されると帝は震悼し朝を輟め、特に少師を贈られた。
- 元鳳が政府にあった時、ある姻戚の子が官職の代理を求めたが、元鳳は「除授は資格によるべきもの」として拒絶、先祖の名を持ち出されても「先公がかつて私を推薦してくれたのは私が恬退を知っていたからだ。今おまえが求める躐次はどうして先大夫の意に適うだろうか、まして国家の官爵で私恩に報いるのは私のなすところではない」と答えた。かつて元鳳が弾劾した者もその後才能を見て推薦し登用、「先日の弾劾はその人材を成すためであり、今日の登用はその才を尽くさせるためだ」と語った。著書に『訥斎文集』若干巻がある。