宋史卷四百十七 列傳第一百七十六 趙葵

生い立ちと初陣

  • 京湖制置使趙方の子。生まれる時、母が南岳神が家に降臨する夢を見たという。父方が襄陽にあった時、葵に専ら飲食供養を命じ、兄の范とともに事功への志を抱いた。父はその器量を認め鄭清之・全子才を師に招き、また南康の李燔に「有用の学」を学ばせた。
  • 警報を聞くたびに諸将とともに出陣、敵に遇えば深く入って死戦、諸将は制置使の子を失うことを恐れ死力を尽くして救ったため、しばしばこれで勝利を得た。ある日、父が将士に恩賞を与えたが労に応じなかったため軍が変を起こしかけた際、当時十二三歳の葵がこれを察知し「これは朝廷の賜り物であり、本司には別に賞がある」と呼びかけ、軍心はこの一言で鎮まり、人々はその機警に服した。
  • 嘉定十年(1217年)、金将高琪・烏古論慶寿が襄陽を犯し棗陽を包囲。辺境の警報が久しく途絶えていたため金兵の急襲に人々は震え驚いたが、父方の帥のもと葵は往戦しこれを敗走させた。
  • 十三年(1220年)、父は葵と都統扈再興に金人討伐を命じ、高頭にて要害を攻略、葵は先鋒として奮戦し再興が続いて殲滅。翌日鄧州に進み、金人は沘河に拠って抵抗したが葵が軍を奮い立たせて大破、俘虜・斬首は約二万、万戸以下十数人を捕らえ馬八百を奪い、城下まで追撃した。
  • 十四年(1221年)、金人が蘄州を犯すと、葵は兄范とともに唐州・鄧州を攻め、父に「敵に勝てなければ再び会うことはない」と命じられた。三月丁亥、唐州に至り城に迫って陣を敷くと、金の大将阿海が兵を率いて出撃、葵は精騎を率いて敵に当たり再興も従い、大勝して首級一万余を斬った。金人は門を閉じて出なかったが、蘄州を陥した金軍が長らく駐留し数十騎が山椒に出たため、葵は楊大成に十四騎で追撃させ、金騎が数百に増えると葵は力戦してこれを連破。金の歩騎が大挙して集結、范・再興の軍と合戦し夜半に至って解いた。
  • 庚寅の日、官軍を二陣に分け范が左、再興が右を将い、葵は突騎で左右に策応。金人は山を背にして二陣に分かれ動かず、范は金人が夜戦で僥倖の勝利を狙うと予測し大鼓を備え、合図で動くよう命じ、五十歩以内で動く者は斬るとした。まもなく金兵が下山し再興が衝いたところ敵の乗ずるところとなり范の軍に迫った。范は鼓を打ち軍を突撃させ、葵が続いて金兵数千を殲滅。敵は力を合わせて再興に向かったが、葵は土豪祝文蔚らと精騎で横撃、金人の屍が連なった。なお夜半まで対峙が続き金は退いたが陣は崩れず、范・葵は将校を集め死士数千を選び、黎明に四面から奮撃、喚声が山谷を揺るがし、金人は敗走、斬首数千級、副統軍は投降、掠奪された子女万余を奪還、山積みの輜重器械を得た。葵は承務郎・知棗陽軍を授かり、范は安撫司内機を授かった。父は間もなく死去した。

李全討伐

  • 十五年(1222年)、葵は起復して直秘閣・通判廬州に進み、大理司直・淮西安撫参議官となる。十七年(1224年)、李全が青州から淮東制置使許国のもとへ檄をもって用兵を議した際、葵は許国に「あなたは賊を図ろうとしながら賊の穽の中に座っている」と諫め、帳前兵を重視すべきと説いたが従われず、結局失敗に終わった。
  • 宝応元年(1225年)、兄范が揚州知事となり、葵は強勇の辺境軍五千を率いて宝応に駐屯し賊に備えた。廬州在任中、私費を費やし諸将と毬射を行ったことが制置使曾式中との対立を招き、弾劾により祠禄官に退いた(奉祠)。
  • 三年(1226年)、将作監丞に起用され、紹定元年(1228年)滁州知事、二年(1229年)李全が浙西に入って米を買おうとしたが実は畿甸を偵察する意図だった。かつて李全が降伏した際、朝廷は節鉞を授けたが、葵はその叛意を見抜き丞相史彌遠に書を送り警告した。滁州では城の防備を修め、秦喜に青平を、趙必勝に万山を守らせて備えを固めた。母の病で辞去を願うも許されず、股を割いて薬に混ぜて母に送り、母の死後も辞任を許されず喪に服した後復職した。
  • 李全は舟の建造を急がせ、葵は再び史彌遠に書を送り、李全の陰謀は火を見るより明らかであると強く訴え、討伐を求めた。参知政事鄭清之がこれを支持し、葵に直宝章閣・淮東提点刑獄兼知滁州が授けられた。范が期日を約して葵を召し、葵は雄勝・寧淮・武定・彊勇の歩騎一万四千を率い王鑑・扈斌・胡顕らを将とし、自ら参議官を兼ねた。李全が揚州東門を攻めた際、葵は自ら出て戦い、李全と壕を挟んで問答し、朝廷が糧餉を絶ったのは反逆の証と厳しく責めた。数戦しすべて勝利、四年(1231年)正月壬寅、李全を討ち取った(詳細は李全伝)。葵は福州観察使・左驍衛上将軍に進んだが辞退、八月枢密院に召され宝章閣待制・枢密副都承旨、のち兵部侍郎に進む。

淮東経営と晩年

  • 六年(1233年)十一月淮東制置使兼知揚州を授かり、帝は「卿父子兄弟の功労は大きく、卿自らも先陣を切り身を捐てて国に報いた、これは儒臣には難しいことだ」と称えた。
  • 端平元年(1234年)三京回復の議が起こり、葵は出戦を上疏、兵部尚書権知・京河制置使・知応天府南京留守兼淮東制置使を授かった。時は盛暑、汴堤が決壊し水があふれ糧運が続かず、回復した州郡は空城で兵食もなかった。まもなく北兵が渡河し水閘を開いたため多数が溺死し潰走、兄范が上表して葵を弾劾、詔により全子才とともに一階降格、兵部侍郎・淮東制置使として泗州に移った。
  • 嘉熙元年(1237年)宝章閣学士・知揚州として旧の制置使に復し、二年(1238年)安豊救援の功で刑部尚書・端明殿学士に進み執政の恩例を特に授かり本路屯田使を兼ねる。葵は前後八年揚州にとどまり、墾田・治兵・辺備を整えた。
  • 淳祐二年(1242年)大学士に進み知潭州・湖南安撫使、のち福州に改める。三年母の喪に服し、終制まで服喪を続けたいと願うも許されず、「移忠為孝」「教孝求忠」の理を説く上疏を二度行うも許されず、のち洞霄宮提挙を拝命するも受けなかった。
  • 淳祐四年(1244年)同知枢密院事を授かり、天下の大事・人材登用について上疏、遊撃軍三万を創設し江を防ぐことを乞い許された。十二月知枢密院事兼参知政事、のち枢密使兼参知政事・督視江淮京西湖北軍馬を特授、長沙郡公に封ぜられ、建康府知事・行宮留守・江東安撫使を兼ねる。
  • 九年(1249年)光禄大夫・右丞相兼枢密使を特授、信国公に封ぜられるも四度力辞、観文殿学士・醴泉観使兼侍読に改められ、のち潭州湖南安撫使を判じ、特進を加える。宝祐二年(1254年)広西宣撫、三年荊湖の鎮を改め荊門・郢州の城を築き、湖南路安撫使・判潭州に改められ、辞退し旧の醴泉観使に戻る。
  • 五年(1257年)少保・寧遠軍節度使に進み魏国公に封ぜられ醴泉観使兼侍読、四度辞退。開慶元年(1259年)慶元府を判じ沿海制置使、のち沿江江東宣撫使として建康府に司を置き、隆興府・饒州・江州・徽州の防拓を任され、建康府行宮留守を兼ね、江東西宣撫使として饒信袁臨江撫吉隆興の官軍民兵の訪問・疾苦の調査・黜陟の便宜を許された。
  • 景定元年(1260年)両淮宣撫使・判揚州、魯国公に進封、のち奉祠。咸淳元年(1265年)少傅を加えられ、二年致仕を願い少師・武安軍節度使を特授され冀国公に進封、舟が小孤山に停泊した際薨去、八十一歳。この夜五州で星が箕(星座)のように隕ちたという。太傅を贈られ、諡は忠靖。