宋史卷四百十七 列傳第一百七十六 游似

游似(字景仁)

  • 利路提点刑獄游仲鴻の子。嘉定十四年(1221年)進士、大理司直から大理寺丞に昇進、太常丞兼権兵部郎官に転じ、秘書丞兼権考功郎中・直秘閣・夔路転運判官、潼川提点刑獄兼提挙常平に移り、封諡(先賢への諡号追贈)を請い許可された。
  • 軍器監・宗正少卿兼権枢密都承旨、一時礼部侍郎権知兼侍講を兼ね、礼部侍郎権知として明堂の祭祀に際し、天を敬う心が政事・言動・雨暘(気候)・夷夏の安寧に及ぶと上疏した。
  • 同修国史実録院同修撰・礼部尚書権知兼侍読を兼ね、軍功の冒濫(不正申告)を正すため、従軍十年以上・統領以上でなければ保明(推薦)を認めないという制度を建議。礼部尚書兼給事中兼修国史実録院修撰・工部侍郎権知・四川宣撫司参賛軍事兼給事中を歴任、吏部尚書に転じ経筵に侍る。
  • 帝に唐太宗の貞観の治が速やかであった理由を問われ、人主の一念の発動が天下の大勢を動かすと答え、太宗は矜心(自負心)を抱いたため貞観の治にとどまったが、陛下は即位十五年、艱難の勢いがさらに増しているにもかかわらず、親儒・従諫・節用・選廉において貞観に及ばないと諫めた。
  • 嘉熙三年(1239年)正月端明殿学士・同簽書枢密院事、南充県伯に封ぜられ、八月参知政事を拝命。四年閏月知枢密院事兼参知政事、淳祐四年(1244年)万寿観提挙兼侍読、知枢密院事兼参知政事に進み郡公に爵進む。五年右丞相兼枢密使を拝命、十度上表して帰郷を願うも帝は許さず、七年観文殿大学士・醴泉観使兼侍読を特授、爵を国公に進める。十一年(1251年)両官転任の上、致仕して薨去、特に少師を贈られた。