范鍾(字仲和)
- 婺州蘭渓の人。嘉定二年(1209年)進士に挙げられ、武学博士・添差通判太平州・徽州知事を歴任、召されて朝廷に赴き刑部郎官に転任、のち尚右郎官・崇政殿説書を兼ねる。帝との対話で「仁宗朝は多事だったが憂勤して治を致し、徽宗朝は無事だったがその弊害が今日に及んでいる」と答え、帝を喜ばせた。
- 吏部郎中兼説書に転じ、秘書少監・国子司業・国史編修実録検討を歴任、起居郎兼祭酒を拝命、兵部侍郎権知・同修国史実録同修撰を兼ね、兵部侍郎兼給事中に転じ、兵部尚書権知兼侍講、のち侍読を兼ねる。
- 嘉熙三年(1239年)端明殿学士・簽書枢密院事を拝命、四年参知政事を授かる。淳祐元年(1241年)田里への帰還を願うも許されず、四年知枢密院事、再度帰郷を願うも許されず、五年特に左丞相兼枢密使を拝命、東陽郡公に封ぜられる。再度帰郷を願い、六年ようやく許され、観文殿大学士・醴泉観使兼侍読を加えられるも辞退、晩節を保つため洞霄宮提挙にとどまる。九年正月薨去。
- 范鍾は宰相として清廉で法を守り官爵を重んじ、際立った功績はないが清徳雅量は杜範・李宗勉と並び称された。少師を贈られ、諡は文粛。著書に『礼記解』がある。