宋史卷四百十六 列傳第一百七十五 王萬

若年と辺防論

  • 王萬は字を処一、婺州の出で濠州に生まれ育った。忠孝で大志があり辺防に精通した。嘉定16年(1223年)進士に及第、和州教授を経て、端平元年(1234年)尚書吏部架閣文字を主管。金滅亡後の情勢に、鄭清之の入洛策に対し自治を優先すべきと説き、大元軍の三辺侵攻に理宗が罪己詔を出す際にも起草に関わった。

淮防・軍制の具体策

  • 淮東防衛策として、淮の中間に大きな山沢がないため首尾相応の常山蛇勢が必要とし、両淮を一元統制すべきと論じた。合肥を淮西の中心と位置づけ、濠梁・安豊・光州を臂、黄岡を肘とし、荊襄との連携を提案。屯田策では新復州軍の東は海州・邳州、西は唐州・鄧州を要害とし、屯戍制度の乱れ(本軍から離れた地に将が配され、軍と将が対応しなくなっている問題)を正して旧制に復すよう求めた。辺民の団結・浮光への援助・辺境防衛の功労者への厚遇も提案し、その建言は数万言に及んだ。

監察御史としての弾劾

  • 樞密院編修官、権屯田郎中を経て天命と君心の一致を説き、台州知事として簡素な生活で庶務を速断し治績を上げた。屯田員外郎兼編修、尚右郎官、崇政殿説書を歴任し、監察御史として史宅之(前宰相の子)の弄権を五度上疏で論じ、平江府知事に出させた。史嵩之の入相に反対し、賄賂の疑いを指摘したが、当時すでに拝相が決まっていたため、大理少卿に転じた後、常熟に隠棲した。

理宗の恩遇

  • 太常少卿、寧国府知事を辞し、福建提点刑獄に転じ、四川宣諭司参議官も辞退し、朝奉郎守太常少卿として致仕。史嵩之罷相後、理宗は王萬の先見を思い、御札で「朝廷にあっては直言の士、地方にあっては清廉の遺愛」と称え、会子5千貫・田500畝を賜った。学問は「時習」の語に基づき、言行一致を重んじた。著書に『時習編』ほか奏劄10巻がある。