宋史卷四百十六 列傳第一百七十五 馬光祖

馬光祖は字を華父、婺州金華の人。宝慶2年(1226年)進士に及第した。財政・民政の手腕に優れ、建康府知事を3度務めて12年間善政を敷き、飢饉救済や城郭整備に尽力した。咸淳年間に参知政事・知樞密院事に至ったが弾劾で罷免され、致仕して卒した。

年表(3件)

若年と地方官

  • 馬光祖は字を華父、婺州金華の人。宝慶2年(1226年)進士に及第、新喩主簿として名声を得た(真徳秀に学んだ)。余干県知事、高郵軍知事、軍器監主簿、処州知事などを歴任し、僧道牒の下賜による飢民救済を朝廷に求めて許された。直祕閣として浙東・浙西の提挙常平・提点刑獄を歴任、軍器監総領兼淮東軍馬銭糧、鎮江知事、江西転運副使兼隆興府知事を務めたが右正言劉漢弼の弾劾で罷免された。

財政家としての手腕

  • 太平州知事、江西茶塩所提領、太府少卿、司農卿、淮西総領兼権江東転運使を経て戸部尚書兼臨安府知事浙西安撫使となり、丞相謝方叔の要請で入朝、海上の米禁強化や京師の食糧難対策を陳べた。宝章閣直学士沿江制置使江東安撫使建康府知事として、常例の公用器皿代20万緡を軍民の犒賞に充て、租税を減らし孤寡貧窮を養い、租税の未納数万を免除、学校を興し賢才を招いた。端明殿学士荊湖制置知江陵府に転じたが、建康の民は彼を慕い続け、再び建康知事となると士女は喜んだ。

再び建康と晩年

  • 前政の逋負銭百余万緡を免除、明道書院・南軒書院・上元県学を修築、平糴倉に米15万石を貯蔵、糴本200余万緡を蓄えて市価より安く米を放出、武備を整えて要害を防衛した。公田法の実施に対し賈似道に「江東には及ぼすべきでない」と反対して免れた。淮西総領を兼ね提領戸部財用兼臨安府知事に転じ、飢饉に際し栄王府が蔵を開かないのを見て、王を三度訪ね「大王の子は儲君であるのに人心を収めぬのか」と厳しく迫り、王が「粟がない」と言うと懐から文書を出し「某荘某倉に幾らある」と示して粟を出させ多くの民を救った。

拝相と最期

  • 同知樞密院事、福州知事福建安撫使を経て、侍御史陳堯道の弾劾で罷免、洞霄宮提挙となったがまた沿江制置江東安撫使兼建康府知事に復し、民は六箇所に祠を建てた。致仕を願うも許されず、咸淳3年(1267年)参知政事、5年(1269年)知樞密院事兼参知政事を拝したが監察御史曽淵子の弾劾で罷免。給事中盧鉞がこれを覆したが、金紫光禄大夫を以て致仕し卒した。諡は荘敏。外征では練兵・財政整備に長け、臨安府尹としても難治を治め、3度建康を治めて12年間威恵を並び行い、百廃を興したと評される。

史論

呉淵は才具に優れながらも厳酷がその評価を損ねた。余玠は意気豪雄であったが志を最後まで信じられなかった。賈似道が汪立信の策を用いなかったのは、天がその魂を奪ったに等しい。向士璧はついに賈似道に阻まれ苦しんだ。宋がついに国を保てなかったこともうかがい知れよう。胡頴が淫祠を毀したのは、その心に一点のやましさもなかったためである。冷應澂は辺境を安んずる才があった。曹叔遠・王萬はいずれも正人端士であった。馬光祖が建康を治めた遺愛は、今なお民心に残っている。まことに能臣というべきである。

宋史卷四百十六