宋史卷四百十六 列傳第一百七十五 胡頴

出自と武芸から学問へ

  • 胡頴は字を叔献、潭州湘潭の人。父瑮は趙方の弟雍の娘を娶り、兄顯は武勇で戦功を挙げた。頴は幼くして秀異で機警、趙氏一族に類する才を賞された。童子科に及第し、弓馬を学ぼうとしたが母に「儒業の家系ゆえ許さぬ」と諭され学問に励んだ。とりわけ『春秋』に精通した。紹定3年(1230年)趙范の李全討伐に幕僚として加わり、微服で諸営を巡察して衆心を掌握、李全敗死後、俘虜を朝廷に献じ官を授けられた。

淫祠の廃止と地方統治

  • 紹定5年(1232年)進士に及第、平江府知事兼浙西提点刑獄、湖南提挙常平を歴任。邪説や神異を嫌い、各地の淫祠数千を毀した。衡州の霊祠を撤去し、道州教授楊允恭との問答で「無を信じれば無、疑えば有を疑うことになる」との議論をした逸話がある。樞密都承旨として広東経略安撫使となり、潮州の寺にいた巨大な蛇を巡る迷信を暴き、蛇を檻に入れて「3日以内に神変を示さねば処刑する」と告げ、変化がないので殺し寺を毀して僧を罰した。広西へ転じ京湖総領財賦を歴任し、咸淳年間に卒し四官を追贈された。剛直で博学強記、文書の才に優れ、浙西で榮王府の盗賊12人を斬った際「好殺」との評に対し「太祖の法を曲げて陛下に背くわけにはいかぬ」と答えた。