宋史卷四百十五 列傳第一百七十四 葛洪

将帥論と学官歴任

  • 葛洪は字を容父、婺州東陽の人。呂祖謙に学び、淳熙11年(1184年)進士に及第。嘉定年間、樞密院編修官兼国史院編修官実録院検討官を経て工部員外郎兼権枢密院検詳諸房文字となり、将帥の心得を論じた上疏で「忠は職務に尽くすこと、公は私を忘れること、純実は欺かぬこと」と定義し、士卒の撫恤や訓練の実効性欠如、賄賂による昇進の横行、装備の名目倒れなどを厳しく批判した。

学官から参知政事へ

  • 直煥章閣として国子祭酒(国史編修実録検討兼務)、工部侍郎、工部尚書、端明殿学士同簽書枢密院事、参知政事に至り東陽郡公に封じられた。李全討伐を賛助し、王素の仁宗への諫言や王徳用への女性献上を止めさせた故事を引いて備嬪御の抑制を進言、世に称賛された。資政殿学士、大学士、萬寿観使兼侍読を歴任し致仕して卒した。諡は端献。杜範は「侃侃として正を守り大臣の風あり」と評した。奏議・雑著文24巻がある。