若年と学問
- 董槐は字を庭植、濠州定遠の人。若くして兵学を好み、孫武・曹操の書を読み「私が将を得れば中土を掃討し天子に還す」と自負した。容貌魁偉で、しばしば自ら諸葛亮・周瑜に比した。父永遇はこの大言を叱ったが、槐は益々自らを慎み、永嘉の葉師雍や朱熹門人輔広に学んだ。嘉定6年(1213年)進士に及第、靖安主簿を経て父の喪に服した。
冤獄の救済と地方官
- 広徳軍録事参軍のとき、富人李桷が誣告された事件で無実を見抜き、太守の反対を押し切って冤を晴らした。鎮江観察推官、主管刑部架閣文字などを歴任し、常徳軍の乱に際しては単騎で騒乱の現場に赴き、首謀者以外は許して市で7人を処刑するにとどめた。江州知事のとき10万余の流民を「民は吾が民なり」と受け入れて救済した。潭州知事として辺境の徴発による民の困窮を策で緩和し、淳祐2年(1244年)左司郎官、沿江制置副使兼江州知事として吏の不正を糾した。
辺境経略と拝相
- 静江府知事兼広西経略安撫使として、西方の諸蛮夷や交阯との関係を安定させ、交阯とは5事(不犯辺・侵地返還・虜掠帰還・正朔奉戴・貿易通商)を約した。工部侍郎、兵部侍郎兼権給事中、端明殿学士簽書枢密院事、同知枢密院事を経て、寳祐元年(1253年)権参知政事、2年(1254年)参知政事、四川制置使余晦の戦敗を憂え荊蜀の重兵配置を献策した。3年(1255年)右丞相兼枢密使を拝した。人主を諫めることを主眼とし、戚里の不法・執法大吏の擅権・皇城司の不検・将帥の統制不足の「三害」を指摘した。
丁大全との対立と晩年
- 丁大全が佞臣として台頭し、槐との私交を求めたが槐は「人臣に私交なし」と拒絶したため大全の怨みを買った。理宗に大全の姦邪を強諫したが聞き入れられず、宝祐4年(1256年)丞相を罷免され観文殿大学士提挙洞霄宮となった。大全の弾劾で兵を発して急遽退去させられ、太学生陳宜中らが上書して抗議した。景定元年(1260年)以降、福州福建路安撫大使、吉国公、許国公に進封され、景定3年(1262年)夕方の大雷雨の中、諸生に易の兌・謙二卦を講じて薨去した。太子少師を追贈、諡は文清。