宋史卷四百十四 列傳第一百七十三 史嵩之
史嵩之は字を子由、慶元府鄞の人。嘉定13年(1220年)進士に及第した。襄陽屯田の功で台頭し、端平元年には蔡州陥落で金を滅ぼす功を挙げたが、その後の洛陽攻略には強く反対した。淮西・荊湖の経略により拝相したが、父の喪中の起復や甥璟卿の諫言・急死をめぐる噂で失脚し、諡号も一時奪われた。
出自と経理屯田
- 史嵩之は字を子由、慶元府鄞の人。嘉定13年(1220年)進士に及第し、光化軍司戸参軍、京西湖北路制置司凖備差遣、幹辦公事を経て、紹定元年(1228年)襄陽の屯田経理で穀68万を積んだ功で棗陽軍を権知した。軍器監丞、制置司参議官などを歴任し、屯田の成功で加官・爵位を得た。京西転運判官、大理少卿兼京西湖北制置副使、大理卿兼権刑部侍郎、制置使兼襄陽府知事を歴任した。
蔡州陥落と入洛戦の反対
- 端平元年(1234年)蔡州を破り金を滅ぼした功で子爵を進封され、三辺経略を提案したが受け入れられず、出師して淮閫と協力する策(洛陽攻略)に強く反対し六条の疏を上呈した。糧餉調達を命じられた際、荊襄が水害・蝗害・飢饉に苦しみ、これ以上の徴発は民の逃亡と反乱を招くと述べ、「和好と進取は両立せず」と説き、誤国の罪は身一つの過ちより天下に及ぶと強く諫めた。丞相鄭清之も異論を唱えぬよう求めたが、嵩之は辞去を求め続けた。結局諸軍は出兵し大敗した。
淮西・荊湖の経略と拝相
- 権兵部尚書を辞し、隆興府知事兼江西安撫使を経て、権刑部尚書として自治の重要性と和議偏重への反対を説いた。淮西制置使兼沿江制置副使兼鄂州知事、湖広総領兼淮西安撫使を経て、嘉熙元年(1237年)京西荊湖安撫制置使、廬州の囲みを解いた功で伯に進封。江陵の防衛には孟珙を用いるべきと進言、漢陽が攻められた際は自ら江陵から出師し、棄城の罪で張可大を誅し盧普・李士達を竄した。嘉熙2年(1238年)黄州の囲みを解いた功で端明殿学士、参知政事、京西荊湖南北江西路軍馬督視・鄂州置司、淮南西路軍馬督視を兼ね、公加食邑。黄州城を修築、光州・滁州を回復した。
- 嘉熙3年(1239年)宣奉大夫右丞相兼枢密都督、両淮・四川・荊西・湖北軍馬を進封、江西湖南軍馬も督視、都督江淮京湖四川軍馬に改まり、32名の士を推薦(董槐・呉潜らが後に賢相と称された)。信陽を回復し督府米で淮民の飢饉を救い、襄陽を回復。嘉熙4年(1240年)金紫光禄大夫を進め永国公に封じられた。淳祐4年(1244年)父の喪に起復して右丞相兼枢密使となったが、太学生黄愷伯ら144人、武学生翁日善ら67人、京学生劉時挙ら94人、宗学生与寰ら34人、建昌軍学教授盧鉞らが起復の不当を上書した。徐元杰・劉鎮らの上封事もあり理宗の心も動いた。
従子璟卿の諫言と失脚
- 甥の璟卿はかつて書を送り、伯父の秉政が私利に流れ、督府の設置が実効なく東南の民力を疲弊させ、蜀の失陥や退師の失を招いていることを痛烈に諫めた。国史に趙普のような開国勲臣として名を残すのでなく、蔡京のような誤国乱臣に列せられかねないと戒め、羣小を退け君子を登用すべきと説いたが、まもなく璟卿は急死し、世に嵩之が毒殺したとの噂が立った。
- 嵩之は公論に容れられず13年間閑職に置かれ、宝祐4年(1256年)観文殿大学士を拝し、8月に卒した。少師・安徳軍節度使を追贈され魯国公を追封、諡は忠簡としたが家諱により荘粛と改められた。徳祐初年、右正言徐直方の言により諡号を奪われた。