宋史卷四百十四 列傳第一百七十三 鄭清之
鄭清之は字を徳源、慶元鄞の人。嘉泰2年(1202年)進士に及第した。史彌遠と共謀して済王廃立を図り、理宗擁立の詔旨を起草した。端平年間には理宗の親政を助けて多くの賢士を召還し(世に「小元祐」と称された)、晩年再相したが、加齢により政が乱れる面もあった。
出自と地方官
- 鄭清之は字を徳源、慶元の鄞の人。初名は燮、字文叔。若くして楼昉に学び楼鑰に称賛された。嘉泰2年(1202年)太学に入り、進士に及第、陝州教授として趙方に仕えた。湖北の茶商が集結し暴横していた際、総領何炳に籍を作り兵とすることを進言し「茶商軍」として後々有用となった。国子監書庫官、国子学録、丞相史彌遠と共謀して済国公(済王)廃立を図った。
理宗擁立と昇進
- 皇子竑(済王)の府教授、宗学諭、太学博士を経て、寧宗崩御に際して丞相の擁立策を定めた詔旨は清之が起草した。理宗即位後、諸王宮教授、宗学博士、宗正寺丞兼権工部郎、崇政殿説書を歴任。禁中の絹靴新調を巡る風評に対し、寧宗の質素な生活を引き合いに理宗にさらなる倹徳を勧めた。兵部兼国史院編修官・実録院検討官、起居郎、樞密院編修官、権工部侍郎、給事中を歴任、紹定元年(1228年)翰林学士知制誥兼侍読、端明殿学士簽書枢密院事、参知政事、同知枢密院事を経て、彌遠の死後、右丞相兼枢密使を拝した。
端平更化と再相
- 端平元年(1234年)理宗が親政を始め、清之も天下を己が任として、真徳秀・魏了翁・崔与之・李皇・徐僑・趙汝談・尤焴・游似・洪咨夔・王遂・李宗勉・杜範・徐清叟・袁甫・李韶らを召還した(世に「小元祐」と称された)。金滅亡後の洛陽攻略戦(端平入洛)が大敗すると、辞任を繰り返したが許されず、観文殿大学士醴泉観使兼侍読を拝した。嘉熙2年(1238年)申国公に封じられ、御書を賜り閣を築いた。淳祐4年(1244年)少保、衛国公に進み、5年(1245年)少傅、越国公に進んだ。子の士昌を喪い辞任を望んだが許されず、少師・奉国軍節度使、玉帯を賜り西湖の漁荘に第を賜った。『仁皇訓典』を進講し、仁祖・孝宗の仁厚と英明が並び立ってこそ盛世たり得たと論じた。
- 淳祐6年(1246年)太保を拝し、高祖鄭洽の追封を許された。7年(1247年)太傅右丞相兼枢密使、越国公。趙葵・陳韡を辺事に用いる議に際し、更化・改元は軽々に行うべきでないと述べた。9年(1249年)太師左丞相兼枢密使を拝したが辞退。財政・兵制・塩法・算舟税などについて多くの改革を行い、旱魃・地震への対応や十龜元吉箴の献上を行った。11年(1251年)十度辞任を乞うたが許されず太師を拝し、明堂の礼で扶けを受けるほど衰弱、雪を見て喜んだという逸話が残る。ついに致仕を許され太傅・保寧軍節度使・醴泉観使、斉国公に進んで卒した。尚書令を追贈され魏郡王を追封、諡は忠定。
人物評
- 清之は物議を好まなかった。湯巾がかつて清之を論難したが、再相後にこれを重用した。趙葵の視師を継ぐべきと固辞するのを退け、自ら左副とする申し出をした。端平の召用の功は清之によるが、再相の頃には年老いて政は妻子に左右され、閑廃の人がその縁で賄賂により登用されるなど、世に軽んじられる面もあった。著書に『安晩集』60巻がある。