宋史卷四百十四 列傳第一百七十三 史彌逺
史彌逺は字を同叔、史浩の子。淳熙14年(1187年)進士に及第した。開禧の北伐に反対し、のち韓侂胄誅殺を主導、寧宗の擁立にも関わり、寧宗・理宗の両朝で長く独相して権勢を振るった。済王廃立の非をめぐっては後世の批判を受けた。
出自と初期官歴
- 史彌逺は字を同叔、史浩の子。淳熙6年(1179年)承事郎に補せられ、8年宣義郎に転じ銓試で第一位となった。建康府糧料院、沿海制置司幹辦公事を歴任し、淳熙14年(1187年)進士に及第。紹熙元年(1190年)大理司直、太社令、太常寺主簿を経て、親の老いにより祠禄を求め、父の喪に服した。慶元2年(1196年)大理司直に復し、諸王宮大小学教授に転じた。輪対では廉潔の士の推挙や国防・農政の整備を献策し、丞相京鏜は「君は他日の功名事業は私を大きく越えるだろう、子孫を託したい」と評した。
韓侂胄誅殺と権力掌握
- 樞密院編修官、太常丞、工部・刑部郎官、宗正丞などを歴任し外任として池州知事を務めた。開禧の北伐(韓侂胄の開辺策)に反対し、上疏して「先に発する者が人を制すというのは一勝一負の勝負事の話であって、国体・宗廟社稷に関わる大事を数千万人の命を賭して軽々に決すべきでない」と説き、宮闕守備の充実と軽率な出兵の停止を求めた。この上疏に際し「太夫人の年齢を思えば親に憂いを与えるのでは」と問われたが、「国利民益となるなら罪を得ても本望」と答えたという。
- 鄞県男に封じられ、権刑部侍郎、礼部を経て、韓侂胄の北伐失敗後、都城が動揺する中、彌遠は皇子詢(後の寧宗の養子・のち理宗擁立に関わる)に危急を訴え、侂胄と陳自強を罷免させた。台諫の弾劾により侂胄は誅殺された。彌遠は礼部尚書兼国史実録院修撰となり、詢が皇太子に立てられると詹事を兼ねた。金への和議交渉では、辺境の防備充実と将帥の登用を献策し、同知枢密院事・太子賓客を拝し、嘉定元年(1208年)知枢密院事、奉化郡侯を進封され、参知政事を経て右丞相兼枢密使、太子少傅に至った。
宰相としての専権
- 母の喪に服したが、皇太子の要請で邸第で服喪しつつ政務を続け、まもなく起復して右丞相兼枢密使兼太子少師となった。嘉定4年(1211年)落起復し、趙汝愚の冤を雪ぎ、その褒贈・諡号を求めた。誣告された朱熹・彭亀年・楊万里・呂祖倹ら「偽学」党人の名誉回復・登用を進めた。寧宗崩御に際して理宗を擁立し、太師・右丞相兼枢密使、魏国公に進封されたが辞退を重ね、機政を退くことを乞うたが許されなかった。宝慶2年(1226年)少師を拝し玉帯を賜り、太后への孝養と徳政を勧めた。紹定元年(1228年)太后尊号奉上の功で太傅を拝したが辞退し続け、病により帰田を願うも許されず、都城の火災を機に五度辞任を乞い奉化郡公に降封された。紹定5年(1232年)太師左丞相兼樞密使、魯国公を拝したが辞退を重ね、太傅の職を解かれることを願った末に会稽郡王に封じられ、卒去した。中書令を追贈され衛王に追封、諡は忠献。賻贈は銀絹千を数え、内帑からも五千匹両が特別に頒たれた。
人物評
- 李全討伐・盱眙回復の功賞で諸将が破格の抜擢を望んだ際、彌遠は「将を御する道は鷹を養うがごとし、飢えれば人に依り、飽けば飛び去る」と、曹彬が江南平定後も太祖から使相を与えられなかった故事を引き、慎重な論功を説いた。皇族である趙善湘の執政入りの希望に対しても、高宗の詔で従官までしか認めないとし、姻戚関係にある自分がなおさら私すべきでないと退けた。親友の周鋳・甥の夏周篆らも高位に留まらせなかった。
- 韓侂胄誅殺後、寧宗に17年、理宗擁立後さらに9年独相し、憸壬(佞人)を専任した。理宗は自らを立てた功に恩義を感じ、台諫の弾劾があっても顧みなかった。彌遠の死後もその子孫は優遇され、碑銘には「定策元勲」と刻まれたが、済王(廃された皇子)の非業の死をめぐっては識者が非難し、彌遠が李知孝・梁成大らを鷹犬として用いたことで一時の君子が貶竄されたと評される。