宋史卷四百十三 列傳第一百七十二 趙與懽

出自と地方官

  • 趙與懽は字を悦道、燕懿王の八世孫。嘉定7年(1214年)進士に及第、会稽尉、建寧司戸参軍、明法科合格を経て浦城県を摂した。父の喪に「善慶五規」を著して子孫に示した。大理評事に遷り、天変・民情・国威の三事を論じ、また囚人の取調べの弊害を指摘した。籍田令、宗正寺簿、軍器監、司農寺丞、宗正丞兼権都官郎官を歴任し、直宝章閣として安吉州知事となり、専売の弊を除いて銅鉦を設けて民の訴えを直接聞き、冤罪を晴らした。

地方民政の実践

  • 富民が幼子を訴えた事件では、実は二人の兄が父の遺産分割を強要していたことを見抜き、法と天理を諭して和解させた。老いた母が唯一の子を「不孝」と訴えた際にも、母子を郡で世話し孝養を尽くさせて和解させた。母の喪に度々召還を辞退し、淮西提点刑獄に任じても固辞したが、のち刑部郎官に召され再び辞して喪に服した。恢復政策の退師や納使の議論の際、朝廷の人選が肝要と説いた。臨安府知事兼浙西安撫使のとき、郊祀の夜に大風雷があり国本未定や弭盗策を上言し、刑罰術数に頼る施政に反対した。秦檜の頌に端平の法度を用いる語があったのを咎めた。

軍事・財政政策と晩年

  • 忠毅軍3000人を招募、禁衛の虚籍是正や辺郡の募兵制を提言。戸部侍郎兼権兵部尚書として辺事を深く論じ、星変を機に自らを罪する上表を五度行った。楮幣(紙幣)政策について、嘉定以来の一を二に易える信用失墜を批判し、両界(旧紙幣・新紙幣)を10年展延して新造しないよう求め、のち境界を廃して混用することを主張。端平以来の贓吏取締りや驕奢の風を戒め、人才登用の重要性を繰り返し説いた。吏部尚書に遷り、江隄の修築や飢民救済に尽力し、資政殿学士・臨安府知事を三度務め、都人は「趙仏子」と呼んで敬愛した。史嵩之の再任に強く反対し、優恤令の起草にも関わった。
  • 安徳軍節度使・開府儀同三司・万寿観使を経て、賜物を辞退し、国本(皇太子)の確立を求め続けた。少傅を拝して卒し、遺表もなお規正を忘れなかった。少師を追贈され奉化郡王に封じられ、諡は清敏。六経の注釈や『仁皇訓典』の詳釈、『高宗宝訓要釈』、奏議・詩文百巻を著した。士大夫の貪欲を厳しく戒め、自らは金帯を質に入れるほど清貧であった。