宋史卷四百十三 列傳第一百七十二 趙汝談
趙汝談は字を履常という。若くして聡明で丞相周必大に才を評価され、朱熹に師事した。趙汝愚を補佐して寧宗擁立の大策を助けたが、韓侂胄の専権期には敢然と対立した。金国内乱に際しては料敵・備辺の二策を献じてその見立てが後年的中し、端平年間には礼部郎官・侍読等を歴任して人材登用や紙幣政策を巡り直言を重ねた。天資絶人にして著述にも優れた。
年表(2件)
- 淳熙11年1184年進士に及第する
- 端平初年礼部郎官として召され、入対して人材登用・弊害是正を説く
出自と若年
- 趙汝談は字を履常という。生まれつき聡明で、15歳のとき祖父の恩蔭で将仕郎に補せられ、淳熙11年(1184年)に進士に及第した。丞相周必大はその文才を高く評価し、参知政事施師點に「この子は他日天下に大名を成す」と語った。汀州教授に任じられ、のち広徳軍に転じ江西安撫司幹辦公事を兼ねた。かつて朱熹に師事し、疑義10数条を質して熹を感嘆させた。
- 丞相趙汝愚を補佐して寧宗擁立の大策を定めたが、汝愚が急ぎ要職に就けようとしたのを固辞し、祖母の喪に服した。
韓侂胄との対立と復帰
- 汝愚が国を去ったのち、弟の汝讜が上疏して汝愚の留任を訴え、韓侂胄を斬るべしと論じたため、聞く者は舌を巻いた。兄弟は党禍に連座して斥けられた。のち安慶府教授、浙東安撫司幹辦公事に転じ、母の喪を終えると大社令に召された。当時侂胄の専権が極まっており、汝談は登壇して祝文を読む際、侂胄と陳自強の名を大声で呼び、自強はこれに耐えかね「末席の色白の者は何者か」と指弾したが、汝談は動じなかった。
- 参知政事李璧の推薦で館職に召試され、正字に抜擢された。呉曦の叛乱に朝廷が手をこまねいていた際、ある者が呉曦を王に立てるべしと持ちかけてきたが、汝談は「誰が曦を王にしようとするのか、斬るべきだ」と詰り、その者は赤面して答えられなかった。このため言責を問われて去り、崇道観、嘉興府通判添差などを経て、無為軍知事となり、光州守柴中行・安豊守陸峻とともに循吏と称された。
金への対策と後半生
- 金国内乱の際、詔により料敵・備辺の二策を献じた。料敵の策では、禍乱はなお河北にとどまり河南には及ばないとし、金が河南に配した将は完顔氏の親族が多く蕃漢雑居で防備が厚いため、金が滅んでも自壊するはずで、軽々に守りを緩めるべきでないと論じた。備辺の策では、辺州の城郭・兵糧・武具の不足を指摘し、古の藩封に倣い英傑を郡守に任じて租税・専売の利を与え、功績ある者は爵秩を進め子孫まで優遇すれば人材が争って奮励すると説いた。実際、河南は以後20余年金の守りとなったが、宋の辺郡は権限を大きく削られ責任を負う者がなく、汝談の言は的中したとされる。
- 湖北提挙常平に転じ飢饉救済に尽力、温州知事、知外宗正を経て一族に詩を贈って教化した。江西提挙常平に遷ったが、寧宗崩御の哀痛で病を得、理宗への賀表に勧戒の意を込めた。数度祠禄を求め、江西転運判官を拝したが辞退できず1月で言者に罷免された。以前病により去官した際、言者は彼を「軒冕を軽んじ世に用いられることを望まぬ」と評しており、このときに至って史彌遠は祠禄を与えず、汝談は門を閉じて著述に専念した。
- 端平初年、礼部郎官として召され、入対して人材登用・弊害是正を説いた。また「大佞は忠に似、大姦は聖に似る」と、佞臣を見抜く難しさを論じた。秘書少監兼権直学士院に改まり、出師の議が起こると軽々な開戦と和議双方に反対したが、三京回復ののち洛陽での宋軍大敗により朝論はようやく彼の先見に服した。宗正少卿兼権直・国史編修実録検討・崇政殿説書を歴任し、『論語』を講じて漢元帝の柔弱不断による衰亡を論じた。吏部侍郎から侍読に昇り、朝議が土地丈量(履畝)とその引き換えとしての紙幣(楮)発行を進めようとした際、これに反対して時の宰相の意に逆らい、言責により去国した。婺州知事に任じられたが辞退を重ね、権礼部侍郎兼学士院を経て、老齢を理由に固辞し続けた。最終的に権給事中・権刑部尚書に至り、卒去した際に官二階を追贈、遺表によりさらに四階を加贈された。
- 汝談は天資絶人、沈思高識で、若年から老年まで一日も書を離さなかった。『易』を占いの書とせず、『尚書』堯典・舜典は一篇にすべきとし、禹の功績は黄河・洛水にのみ及んだとし、『洪範』は箕子の作でないとするなど、独自の卓見を持った。文章にも天成の巧みさがあり、恩讐を忘れて義理を重んじた。かつて自分を弾劾した御史王益祥が、後に汝談の郷里で官についた際、恥じて会おうとしなかったが、汝談はたびたび訪ねてよい関係を築いた。著書に『易』『書』『詩』『論語』『孟子』『周礼』『礼記』『荀子』『荘子』『通鑑』『杜詩注』がある。