宋史卷四百十二 列傳第一百七十一 陳咸
出自と初任
字は逢儒、監察御史陳升卿の次子。淳熙二年(1175年)進士。内江県尉として賦税の不均衡を正し、知果州南充県では民に利する楮幣増印策を実施した。
呉曦の反乱への対処
四川宣撫使程松の幕下で兵事を論じ、副使呉曦の専横を憂えた。曦の反謀を知って松に密告するも用いられず、曦から脅迫されたが応じず、剃髪して臣節を全うした。曦誅殺後、四川の財賦総理として乱後の財政を安丙と共に立て直した。
蜀の財政再建
乱後の窮乏した帑蔵を再建すべく諸司の羨余を集め、当五銭の鋳造や官の売却を行い、上供の一部を蓄えて軍費に充てた。楮幣(引)の価値回復に努め、屯田の整備、辺境の防備(金州)にも力を注いだ。司農少卿として卒し、「勤節」の諡を賜った。
史論
宋が金に辱められて久しかったが、我が国が兵を興して罪を討ち声威が河朔に震うと、宋は孟珙を遣わして共に攻め、ついに金を滅ぼし百年の恥を雪いだ。珙が礼楽を説き詩書を敦くしたことは、まことに比類がない。杜杲・王登・楊掞・張惟孝は功名を以て自らを立て、その事功の大小はあれど皆奇才であった。陳咸は逆賊呉曦に従わなかったが、死をもって節を貫いたわけではない。しかし喪乱の後に財を治め蜀を守りきったことは、匹夫として溝瀆に自ら経つ者よりも遥かに賢明であった。