宋史卷四百十一 列傳第一百七十 牟子才
出自と初任
字は存容、井研の人。魏了翁・楊子謨・虞剛簡・李方子(朱熹門人)に学ぶ。嘉定十六年(1223年)進士対策で丞相史弥遠を弾劾。文州視軍の際、大元軍の圧境を知りつつ職務を全うした。李心傳の四朝国史編纂に召され史館検閲に抜擢された。
理宗朝の直言
時政の得失を万言の封事に上奏し、太子擁立の早期決定を求めた。鄭清之の再相後は済王の後嗣擁立を求め続け、徐霖の左遷をめぐり数度上疏、宰相の専断を戒めた。修四朝史のかたわら、経界の苛政や信州の乱を批判、宣和の失政に例えて水害への反省を促した。
賈似道政権下での抵抗
淮東制置使賈似道の海州捷報について功を誇張せぬよう詔を起草して不興を買った。四川の兵力不足を指摘し、賈似道・李曾伯の両人に頼る辺防の危うさを説いた。吳子聰の任官を繳駁し、宦官董宋臣の専横を批判し続けた。李白祠の記文に高力士の専横を借りて宦官の害を諷刺し、宋臣の逆恨みを買い誣告されたが、安吉守吳子明の証言で潔白が証された。
度宗朝の晩年
賈似道の憚る所となりつつも、開慶の危機を脱した後の逸楽と讒言横行を痛論し、忠厚は祖宗の家法であると説いた。禮部尚書・翰林学士知制誥まで進み、公田法の廃止・七司法の是正を訴えた。度宗即位後は翰林学士知制誥を固辞、資政殿学士を以て致仕、卒した。著書に『存斎集』などがある。子牟獻は大理少卿となった。