宋史卷四百十 列傳第一百六十九 范應鈴

出自と地方官

字は旂叟、豊城の人。開禧元年(1205年)進士。永新尉として溪峒の乱を治め、租税の弊政を粘り強く争って民を救済。知崇仁県では版籍の欺瞞を正し賦役を均しくした。真徳秀に治績を称賛された。

知吉州としての峒寇平定

江右の峒寇の乱に際し知吉州として赴任、兵を練り軍籍を整理。永新禾山の群盗を趙希邵に討伐させ、贑の叛卒朱先も密使を用いて捕らえた。

言官としての直言

広西提点刑獄・金部郎官・浙東提点刑獄・江西提举常平を歴任、儲貳(皇太子)擁立を早期に決すべきと痛論した。湖南転運判官兼安撫司として峒獠蔣何三族の反乱を親征し、首謀者のみを誅殺して脅従者を安堵させた。

人柄と晩年

清廉で賄賂を受けず、判断は迅速で公正、貨財の獄でも不正に得た財を没収しなかった。大理少卿として死の直前まで政務を処理し続けた。著書に『西堂雑著』『対越集』がある。徐鹿卿は「経術は児寛に似、決獄は雋不疑に似、治民は龔遂に似、風采は范滂に似、理財は劉晏に似て、しかも正大さは彼らを凌ぐ」と評した。