宋史卷四百十 列傳第一百六十九 徐經孫
出自と清廉な官吏
字は中立、初名は于柔。宝慶二年(1226年)進士。瀏陽主簿として会子の私的流用を厳しく拒み、清廉さで人を驚かせた。知臨武県・通判潭州(陳韡の下)を経て監察御史となり、京尹厲文翁を弾劾した。
陳韡との対立と誠実
福建提点刑獄・安撫使を歴任した後、陳韡が知潭州として復帰した際、通判の讒言により経孫は罷免されかけたが、理宗が大怒し陳韡を戒めた。経孫は自ら政府に赴き、通判を無罪とするよう嘆願し、義理を貫いた。
東宮輔導と公田法批判
宗正少卿・起居舎人・起居郎を経て刑部侍郎兼給事中・太子左庶子太子詹事として三年間東宮を輔導した。景定三年(1262年)春の雷異に応じた対策で、忠讜の気が塞がれている現状を批判。公田法の弊害を条陳し丞相賈似道の意に逆らったため、翰林学士知制誥に任じられて間もなく罷免された。端明殿学士を以て閒居十年、卒後紫金光禄大夫を贈られた。
史論
ああ、寧宗の治世と韓侂胄の宰相就任は、はたして用兵にふさわしい時であったろうか。それゆえ婁機はこれを強く諫止した。小学の学が久しく廃れていたのに、機だけがこれに力を注いだ。沈煥・舒璘は学識遠く見識明晰であった。曹彦約は事功を建てるに足る人物であった。范応鈴の政事は神明の如く赫然たるものがあった。徐経孫は清慎にして節を守り、ついに公田法をめぐって賈似道に逆らい国を去った。君子はこれを称える。