宋史卷四百十 列傳第一百六十九 曹彦約
出自と金軍撃退
字は簡甫、都昌の人。淳熙八年(1181年)進士。朱熹に学ぶ。知澧州の際、薛叔似の下で漢陽の防禦にあたり、金軍の大挙侵入に対し土豪許卨・趙観・党仲昇を用いて南河・漢川を防衛、戦艦を焼き払うなど大戦果を挙げた。
湖南での賊乱鎮定
湖南転運判官として羅世傳・李元礪・李新らの反乱を鎮定。李新を洣水で撃破し、世傳に元礪を討たせて自効させるなど巧みな懐柔と武力を併用した。しかし世傳自身も桀驁で、最終的に密使を用いて誅殺させた。
四川での献策
利州転運判官兼知利州として関外の飢饉を救済。制置使董居誼が沔州都統王大牙の驕横を制せぬことを憂い、「病夫議」を著して兵権と財権の分離統一・忠義の兵の教導を説いたが当時は容れられず、後の張福・莫簡の乱で的中した。
晩年の言論
理宗即位後、兵部侍郎兼国史院同修撰として学問振興と近習抑制を説き、封事で光宗・寧宗朝の言路の教訓を論じ、太宗の淮南王処遇の故事を引いて済王への恩恵の在り方を諭した。李心傳を史館に推挙。兵部尚書を辞して知常徳府となり、致仕後「文簡」の諡を賜った。