宋史卷四百六 列傳第一百六十五 陳居仁
陳居仁、字は安行、興化軍の人。紹興21年(1151年)進士。地方官として金への使いや荒政・治水に尽力し、「天下第一」の治行と評された。中書舎人・戸部侍郎などを歴任し循吏と称えられた。子の卓(字は立道)も紹熙元年(1190年)進士に及第し、簽書枢密院事などを歴任した。
年表(2件)
- 紹興21年1151年進士に挙げられる
- 紹熙元年1190年子の卓、進士に及第する
出自と初任
- 陳居仁、字は安行、興化軍の人。父の太府少卿陳膏は明州の汪氏の娘を娶りそこに家をなした。膏は初め汾州教授として守臣張克戩を佐け金人を防いだ後、知恵州として単馬で曾衮の砦に造り降を諭した。鄞の僧王法恩の謀反事件が発覚し屠城を請う者もあったが、膏はまさに御史として殺しすぎることは聖世の事ではないと力論し、脅従した者はすべて寛宥された。居仁は四歳で孤となり蔭により鈆山尉に授けられる。紹興21年(1151年)進士に挙げられる。秦檜は膏と旧知であり一度会えば美官が得られると勧める者があったが、居仁は「これは天命による」として自ら通じることはなかった。永豊令に移り、入って行在の点検贍軍激賞酒庫所糴場を監す。高宗聖政の修撰の詔があり寮属を精選して范成大と共に検討官を充てた。淮甸で交兵が起こり、魏杞が宗正少卿として金への使いに辟され居仁を幕下に加えると、和戦未決の頃、金兵が淮北に駐屯し人情は恟懼するなか突騎が大挙して道を挟んで弓を彎いても居仁は馬に乗って猶従容として酒を挙げ杞に献じ「天寒し、且つこの觴を釂(干せ)よ」と述べ、観る者はこれを壮とした。金人に道を開かせ卒に礼を成し歳幣を減じて帰った。功により承議郎に転じ諸王宮大小学教授に授けられる。杞が国柄を執っても居仁は貧を忍んで昇進を求めず、虞允文がこれを引いて用いようとしたが就かず、允文が兵を論じようとすると謝して能わずとし、退いて書を貽り定力があってこそ立事できると論じ「もし徒に大言をなせば必ず成功なく、成功もまた旋踵に敗れる」と述べたため允文は色を動じた。軍器監簿・宗正修玉牒に転じ、転対で立国は規模を定めるべきと論じた。
孝宗朝の実務
- 孝宗は初め不悦で「朕は未だ規模を立てないことはない」と述べたが、居仁は「陛下は恢復に鋭意しつつも通和に至り、和・戦・守の三者がいまだ定まっていない、どれが規模と言えようか」と奏した。允文は「これは正に以前の定力の論だ、今ますますこの言の当を知る」と述べた。将作監丞に遷り国子丞に転じ、九年後祕書丞に進み入対して文武並用長久の術を論じ、「陛下が武臣を奨進するのは持平救偏の道に適っているが、未だ必ずしも智謀勇略の士を得ているとは限らず、多くが便佞軽躁の徒であれば偏勝の患いが再びある」と論じ帝は嘉納した。権禮部郎官として台閣は明習典故の士を多く用いるべきと論じ、帝がその人を問うと李燾・莫濟を対え、数日後燾が召された。居仁が力めて外任を請うと知徽州に授けられ、帝は陛辞で慰諭し「天子の節経費で恵倹瘠を推広できなければ吏に罪がある」と告げて遣わした。着任すると三衙軍を招き庭に二表を植え、輸納が中度で抑退される者があれば所輸を抱いて表下に立たせ親しく視察したため人に留滞がなく、吏も措手できず輸税者は常に贏(余分)を裹んで帰った。隣州の訟の多くが台省に赴くのを居安(居仁)に決を乞う者もあった。任期満了の際邦人が挽留し間道を使ってようやく去ることができた。入対すると帝は新安の政を挙げて奨めた。
- 隆興以来の寛恤詔令を編類することを請い「法が久しければ玩ばれやすく、事が久しければ怠りやすい、ただ戒飭を加えその観聴を儆しめれば千万年なお一日の如し」と述べると帝は「名言なり」と述べた。また歸正忠順(帰順金人)の待遇が過度に優渥な一方で戦士がかえって軽んじられていること、これらの者が万死の策を出して勲を建てたのに今老い添差が既に罷められ廩稍が半給されるに至って市に匄うほどになり軍士が解体しかけていること、優恤を加えて終始念功の意を堅め後生に図報の心を持たせることを乞い、帝はこれを嘉歎した。駕大閲白石に会うと再添差両任の衣糧全給を命じ三軍がこれに呼舞した。戸部右曹郎官に留められる命が下る前に会要を推賞していた朝廷は「陳居仁の治行は天下第一である、これに因って併せ賞すべし」と述べ特に朝議大夫に転じ度支を権兼し禮部も権兼した。枢属に闕員あり進擬しようとした際、帝は「陳居仁のような人材がどうして久しく郎でいられようか」と述べ即座に枢密院検詳文字を授けた。まもなく右司に、遷って左司に、また検正中書門下省諸房公事に遷り左藏諸庫を歴兼した。居仁は自ら按牘を親視し「罪あって幸いに免れる者があれば寃者は誰に告げるのか」と語り、誣枉七人の敘復の疑いを執政が難ずるのに対し、疏してその寃状を上奏、帝は「居仁は精審だ、これ以上何を疑うことがあろう」と述べた。
晩年
- 旱により求言の詔があると寛大を務め行うことを乞い、御史京鏜が極めて窄い(厳格な)扱いを論じたが、この風はまだ改まらなかった。假吏部尚書として金への使いを終え遷って起居郎、まもなく一司敕令を詳定し兼権中書舎人となる。泛恩濫賞の封繳を回避せず、恩恵が小民に及ばず寛逋負を名としながら実は頑民を恵むこと、赦有罪を名としながら実は姦民を恵むことを言い、天下の五等戸の身丁を尽く放ち四等戸は半分放つことを願い従われた。安定王の子肜が妾を夫人に封ずることを乞うと居仁は繳奏し帝は喜んで迎え風教を補うところがあると称した。また「君人の道は要を執るを貴ぶ、今陛下は細故を親しみ遠猷を忽にし、末節に事えて大体を忘れている、綱要を挙げて臣下を御し思慮を省いて精神を頤うべし」と論じた。詰旦(翌朝)に中書の務を清くさせ権直学士院となり、帝は「内外の制は従来数人に委ねていたが今陳居仁一人が当たっていて難しさが見られない」と述べた。大臣に博議させ浮費を絶ち冗兵を汰し当省の数を計り蠲除の目を定めることを乞い、これが富民の要術であると述べた。
- 集英殿修撰として知鄂州となり長堤を築いて江を扞ぎ安楽寮を新設して貧病の民を養い、閒田を撥してこれに帰した。焕章閣待制に進み建寧府に移り、歳饑には儲粟を出して価を平らかにし逋負を弛め巨万に及ぶ額を代輸し、畸零の繭税も代輸した。告糴により人を殺した者があり赦に会って免れそうだったが、居仁は「これは乱民である、釈けば必ず再び悪をなす」として誅した。観察推官の柳某が死に貧しく帰れず二子が道で乞食していると聞き居仁は憐れみ衣食を与え田を買って養い師を選んで教えた。鎮江が大旱のため居仁は鎮江の守に移され、兵食のために緡銭十四万を給するよう請うが報われなかったため書をもって義をもって丞相を動かした後にようやく発を許され、時に密かに人を遣わし荆楚から糴運させると商人たちは「これは陳待制ではないか」と言って争って粟をもって糴に応じた。居仁の区画は方策があり救った者は数万に及んだ。饑民により古海鮮界港を治め石䃮とし、丹徒の境上に蓄泄の便を設けて漕運を通じさせ、江隂の姦僧を治めた。
- 寳文閣待制知福州となり、境に入ると饑民が嘯聚していたため牙兵を分けてこれを遮撃し首悪は策が尽きて自ら首を絞めて死んだ。宗室の暴横を治め蠱毒の旧禁を申した。閒を求める召命があり再度進んで華文閣直学士・提挙太平興国宮となり卒す。金紫光禄大夫を贈られる。居仁は風度が凝逺で自己を処し物に応ずるにひとえに誠信をもってし、事に臨んでは毅然として守るところがあり、至る所で循吏と号され皆祠を立てて祀られた。著書に「奏議制藁」「詩文」が世に行われた。子は卓。
子卓
- 卓、字は立道。紹熙元年(1190年)進士に及第し、その後知江州、移知寧国府。丞相がわけあって会おうとしたが卓は謝して赴かず、丞相はいよいよこれを重んじた。李全の叛乱で爵を褫われた詔書が淮に至ると人々はいよいよ自ら励んだ。太廟の火災で罪己の詔を降し京師が感動したのも卓の起草によるものだった。簽書枢密院事となるがまもなく祠を乞い里に還った。生涯産業を営まず、賛書(皇帝の書の代筆等)で得た酬金で世綸堂を築いた。閒居十六年で卒した。年八十六。葬儀を具える資力がなかったため丞相呉潜がこれを聞き制置使に書を送り助けさせ、孫の定・孫が朝廷に諡を強く請い遂に「清敏」と諡された。