宋史卷四百四 列傳第一百六十三 劉頴

劉頴、字は公實、衢州西安の人。張浚に租税免除を進言して名を知られ、地方官・言官を歴任、獄事の是正や治水に努めた。淮東総領などで財政の弊を正し、党論の時代にも節を曲げず直言を続けた官僚。

年表(2件)
  • 紹興27年1157年進士に及第し溧陽主簿に調任
  • 嘉定改元行在に召され刑部侍郎に除される(辞して龍圖閣待制知婺州となる)

出自と地方統治

  • 劉頴、字は公實、衢州西安の人。紹興27年(1157年)進士に及第し溧陽主簿に調任。張浚が建康を留守していた頃、金師が初めて退いた後、府が民租の未納分を索めようとすると頴は浚に「師旅の後は先ず撫摩すべきで、逋賦(未納の税)は尽く蠲じるべき」と説き、浚は喜んですぐに免除を奏し閣に入れた。これにより名を知られ、子の張栻に頴と交遊させた。全州教授に改まり知鉛山県、外艱により去り再び知常熟県となる。簽判潭州の王佐が帥として能を負い盛気で僚吏に臨む中、頴は中道を守って屈することが多かったが、陳峒の反乱で捕らえた賊が多かったため帥は「簽判はまさに臣の上に居るべし」とその功を上奏、監進奏院に召され太常寺主簿・丞兼兵部郎官に進んだ。
  • 浙西常平茶塩を提挙し澱水湖を還らせて呉松江に泄水させ、民の侵築を禁じて大流を逼塞しないようにし民田はこれによって利を得た。提刑に遷り冤を洗い物を澤すことを任とし、間々獄に詣でて繋がれるべきでない者を察して縦(釈放)した。御史に介僻(性格が孤高で偏ること)を理由に劾罷される。江西運判に除され、江州徳化県では田が逃げ徙る者が半ばを超えていたため守が税の蠲じを乞うが報われず、頴は現在の耕作田の税を荒莱の田に均一にして減じ、耕作を願う民を招くと上供は変わらず逃田は尽く復した。直祕閣・淮東転運副使を除される。

淮東での治績と晩年

  • 楚州城が水害を受けたばかりで修補未完の頃、劉超がこれを移築しようとしたが、頴はちょうど金国使人を接伴する際に対面して「国家が百万緡を捐じて軍帥の幸賞地となすことをどうして苦しむのか」と述べ、光宗はこれに従った。戸部郎中・淮東総領を除される。務場では額鈔で賞に充てることで隠に餉計を耗る弊が二十年知られなかったが、頴は覈べてこれを得て売却数に基づいて論賞し、総餉は増羨した。司農少卿に遷る。淮西総領で以前に主計していた者は自ら都醸として抱かせ淨息を得て利を余得としていたが、後にかえって大軍銭でこれを佐け江淮回易を邀糴し行商のようにしていたことを、頴は王人(王朝の官)の体を失うものとして罷免した。内府の宣限が既に迫っていると供軍銭を移して歳輸に応じさせていたのを、頴は吏の弊を捜って冗員を汰し月ごとに綱解を分けさせ、これより移用は無くなった。
  • 直寳謨閣・江東運副・知平江府が命じられるが赴かず、宗正少卿を除される。起居郎兼実録院検討官に遷り権戸部侍郎に転じ同修撰に昇る。疾により祠を乞い興国宮を提挙し、集英殿修撰・知寧国府に除され知紹興府に改まったがまもなく知平江府に至り、径ちに帰って興国宮を提挙、知泉州に起用され華文閣待制に昇り興国祠を請うて帰り、興国祠が満ちて敷文閣待制致仕を除される。嘉定改元、行在に召され致仕を落として刑部侍郎を除されるが辞し龍圖閣待制知婺州に進み、老を請い寳謨閣直学士致仕をもって六年後に家で卒した。年七十八。光禄大夫を贈られた。
  • 孝宗朝、人臣が争って意を承け自ら献策する中、頴は「今日の失は人言を軽く聴くことにあり、昔の施為を今また棄置すれば盛徳を大いに損なう」と奏し、孝宗はこれを嘉納した。光宗の代には人主が克え難くまた流されやすいこと四つ、逸豫無節・賜予無度・儒臣が疎遠にされやすいこと・近倖が昵しみやすいことを論じた。寧宗の代、学禁が起こり党論が日々盛んになると、頴は「陛下が之を御するに道をもってし、之を容れるに徳をもってせよ、さもなければ元祐・崇観の事は鑑とすべし」と奏した。その言はみな時に切中していた。浙西より外任を請うて以来、麾節を徙ること十余年、遅速を訊ねられた頴は笑って「吾が欲する所なり」と応じた。
  • 従班にあった日、韓侂胄はもと旧知の間柄であったが、頴は用事するに及んで謝絶し常に「士たる者、身を辱めないことを重んずる」と語った。少宗正であった頃、丞相趙汝愚がちょうど任地から帰って廃寺で遭遇し、泥雨で足を伸ばせぬまま僧牀に立って語り「余参政某(余端禮)に伝えてほしい、我は去っても人才は依然として朝廷にある、幸いこれをよく遇してほしい」と述べると、頴は「相公の人才はすなわち参政の人才である。参政の任は宰相の憂いではない」と述べた。余参政は端禮のことで、余端禮が宰相を継いだ後は善類を多く庇護したのは頴の助けによるものだったという。