宋史卷四百四 列傳第一百六十三 李舜臣
李舜臣、字は子思、隆州井研の人。幼くして学に長じ、易学に深く通じた学者官僚。進士に及第後、地方官として民政・訟争の調停に努め、著述も多く残した。子の性傳も高位に至った。
年表(1件)
- 乾道2年1166年進士に及第する
出自と学問
- 李舜臣、字は子思、隆州井研の人。生まれて四年で読書を理解し、八歳で文を作った。少長じて古今に通じ興廃の跡を推し根本を洞見し、慨然として天下に志があった。紹興末、張浚が江淮に視師すると舜臣は詔に応じて上書し、「乗輿(帝の行幸)が出でなければ大計は定まらない、武昌に幸すべきである」と述べ、また「江東は六朝いずれも一時勝利を得たが北方は機に乗じて天下を争おうとしなかった」として、今日の鑑とすべく「監著江東勝後之鑑」十篇を著し上呈した。
- 乾道2年(1166年)進士に及第。朝廷が既に兵を罷めた頃、宰相となる者はますます天下の望に副わず、舜臣は対策で金は世讎であり和議は無用と論じ、宰輔大臣が奉行文字を職業とすべきでないと述べたため考官はこれを嫌い下第とされ、卭州安仁県主簿に調任された。大飢饉の年、饑民千百が鉏(すき)棘を持って大呼し邑市を震わせ、市は懼れて門を閉じたが、舜臣は「これは盗ではない、何を懼れるか」として急ぎ出て慰労し解散させた。成都府教授を務めた頃、虞允文が関上で師を撫し舜臣を辟して幕府に置き、挙者により宣教郎・知饒州徳興県に改まる。もっぱら風化を尚び、民に母子昆弟の訟が連年決しないものがあると慈孝友恭の道を説き、遂に母子兄弟は元通りになった。時折学に赴いて講説し邑士は皆「蜀先生」と称した。
地方統治と学問
- 罷任時、百姓の預貸償が前官の積逋三万余緡に及んでいたが免除した。民が差役に病むため、諸郷に税数の低昂で役期の久近を定める「義役」を勧め紏させ、期年で義役が成立し民は大いに便利を得た。銀坑が久しく罷まっていたにも関わらず小戸に銀本銭を敷賦していたため官がこれを償わせた。天申節の大礼助賞や軍器所の需めもすべて民を煩わさなかった。諸司審計司の幹辦官を経て宗正寺主簿に遷り、裕陵の玉牒を重修した際、曽布・呂惠卿を執政に初めて用いる際は必ず謹んで書き記した。ある者が非執政の除免の格は書くべきでないと言ったが、舜臣は「治乱に関わることをどうして常法に拘れようか」と述べ、他の筆削もこれに類した。
- 舜臣は易学に最も深く通じ、「易は画(爻の図形)に起こり、理・事・象・数はみな画に因って見えるものであり、画を舍てて論ずれば易ではない。画は中から起こり、乾坤の中画は誠敬、坎離の中画は誠明を表す」と語った。本伝は三十三篇著され、朱熹は晩年これを学者にしばしば称した。著書に「群経義」八巻、「書小傳」四巻、文集三十巻、「家塾編次論語」五巻、「鏤玉餘功録」二巻がある。子の心傳・道傳・性傳のうち性傳は官二府に至り、太師を贈られ崇国公に追封された。