宋史卷四百四 列傳第一百六十三 柳約

柳約、字は元礼、秀州華亭の人。経学に通じ上舍進士に及第、地方官・言官を歴任した。金軍侵攻の際は孤城を守り抜いて朝廷に嘉された忠節の士で、高麗への使節適任者とも目されたが妨げられた。至孝で知られた。

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出自と初任

  • 柳約、字は元礼、秀州華亭の人。大観3年(1109年)上舍進士に及第、学官試に合格して覇州教授となり睦州に徙り、入って辟府正となる。博士に遷り宣議郎に改め広親宅宗子博士を充てた。約は経学に深く、文章は粋微で学者たちに大いに師慕された。福建鹽事提挙に挙げられ、召対して内外学正について論じ、次いで内外の官が到堂の日に牒を投じて求官することを禁じ風俗を厚くすることを乞い、秘書省校書郎・著作佐郎に授けられ、徽州司録に改まり通判宿州に改まった。召されて監察御史を拝し、靖康の初め殿中侍御史を兼権し三鎮を棄てられないことを論じ、尚書工部員外郎に改まり左司員外郎に進んだ。父の喪により官を去り服除後、直顕謨閣として御営司参謀官を充てた。

金軍侵攻期の忠節

  • 太常少卿に遷る。高宗が平江に幸そうとした時、約は上疏して「兵は進めても退けてはならず、敵に怯を示してはならない」と論じ、直龍圖閣・知台州となるが赴任前に厳州に徙り浙西兵馬都監・節制管内軍馬を兼ねた。ちょうどこの時、金人が大挙侵攻し杜充が衆を擁して北へ去り、諸郡は震恐して官守を訪ねる者もいなかったが、約は横潰の中で独り孤城を保ち力を尽くして防戦、境内は安堵した。約は慨然として上書し諸郡を糾合して呉会を克復することを請うと、上(高宗)はその忠を嘉し右文殿修撰に進めて守郡は元のままとされた。詔に「軍興の費出は際限なく吏は慢がりが常だが、柳約は独り賦輸を謹み率先して督励した」として秩を一等進め、また「約の郡は兵衝に当たるが難を辞さず事を避けず、益々厳しく列栅して一方を保綏している。朕はこれを甚だ嘉す」との詔とともに集英殿修撰を充てさせ、召し入れて対面し奨労された。権戸部侍郎に抜擢される。
  • 約はこれに感激して盡言し、例外の宣索は皆執奏して進めず、呉幵らの罪が未だ正されていないことを論じ臣節を励ますに足りないとした。諸大将が兵を率いて入覲するたびにそれぞれの家を名乗り、尾大不掉の患いを招くと敢えて言わない者ばかりの中、約はこれを言い、軍興の科需が百出することについて官戸の名田が過制な者を編戸と均一に科敷するよう請い、諸路の酒銭を増して提刑司に半分を樁管させ軍費に備えるよう請い、いずれも採用された。高麗が修貢を請い報聘の使を遣わす議になった時、上は廷臣の中で約以上の適任者はないとして試戸部侍郎を加え大用しようとしたが、当路の者はこれを忌み言者を諷して事を誣り罷めさせ提挙太平観となった。七年後、祕閣修撰に復し金人が疆域を侵すと知蔡州に起用され命を受けてすぐに赴き一切顧みなかった。まもなく金人が盟約を破って檄を伝えると河南の守臣は皆城を挙げて降ったが、約は独り使者を武昌に数回遣わして返報を得てから帰った。まもなく敷文閣待制・食祠禄として十五年、卒した。四官を贈られる。約は天性至孝で、母が病んだ際は天に泣いて禱り自らの寿を損じて親の寿を益することを願うと母の病はまもなく癒えたが、約自身は母より二ヶ月早く卒したという。