宋史卷四百四 列傳第一百六十三 張運

張運、字は南仲、信の貴溪の人。25歳で進士に登り地方官を歴任、楊么の乱鎮圧にも加わった。財政・刑獄に通じ、金軍侵攻時には李寶による海路制圧策を主張して勝利に導くなど、戸部侍郎として国用の整理に尽力した。知太平州などを経て致仕。

年表(4件)

出自と初任

  • 張運、字は南仲、信の貴溪の人。唐の宰相張文瓘の後裔。父の張貫は右通直郎、累贈太中大夫。運は25歳で太学生として宣和3年(1121年)進士第に登り、同上舍出身を賜り桂陽監監山県丞に調任、県令が欠員のため運が県事を摂り、県は諸獠と接壌するため俗に因って治め吏民は安んじた。臨武寇が諸獠と合して大いに剽掠すると運は自ら兵を率いてこれを捕らえた。潭州攸県尉に遷る。
  • 高宗の南渡後、劇賊王在が岐山に拠ると、潭帥は兵を徴して岳州を戍らせ、運は二千人を率いて先に岳に至り賊を平定した。臨江新淦丞に改まり、県は新たに兵禍を被り令はこれを支えられなかったため、沿江撫諭使張匯がこれを劾罷し運に県事を摂らせた。運は煨燼を撥い版籍を考して租賦を正し、数ヶ月で弊が除かれ民は定まった。

楊么の乱と地方統治

  • 紹興5年(1135年)通判鼎州のとき、賊楊么・黄誠が数万の衆を擁し城邑を残破し湖北で跳梁した。高宗は張浚を都督として師を出し、岳飛を招討として撃たせたところ、賊は軽鋭を率いて武渓南から鼎州城へ迫り城中は大いに震えた。運は太守程昌㝢と共に兵を率いて登城し上下を扼して勢いを張ると、賊は夜に潰えた。澧の賊雷徳進が険に柵して乱を称すると、帥檄を受けて運はこれを討ち、都統梁吉らを率いて直ちにその巣を撃ち四十二の柵を破ってその衆を降した。
  • 濡須へ移り、金人が廬・夀等州を犯すと大将は淮壖に兵を駐めてこれを拒み、運は餉給を絶やさなかった。歳余りで親の老いを理由に江東に還り鄱に寓居、母と父の喪に相次いで丁った。服除後、知桂陽監に起用され五ヶ月で境内は治まったとされ、部使者が奏して監を軍に昇格させた。庠序の教を大いに修め、漢以来桂陽に功徳のあった衞颯・唐羌ら七人を祠り学に刻し、続顔氏家訓・四時纂要等の書を民間に散布して民に修徳と務本を促した。召されて対面し知逹州を除される。ちょうど大旱の時に境に入ると雨が降り、病民五事を除くことを奏した。度支郎中に召される。

財政の建策

  • 臨安の楼店務の銭は歳三十余万緡あり、そのうち十万を戸部に還すよう請う。戸部の蓄える三佛齊国貢の乳香九万一千五百斤は直(値)百二十余万緡に及ぶため、江浙荆湖漕司に分送してこれを売り軍餉を糴うよう請い、また諸路の綱運の七つの弊を陳べ、十の術で懲革し、遠近が輸送を分担して労逸を均すことを説き、いずれも施行された。枢密院検詳を兼ね、軍器監に遷り、まもなく大理少卿に改め、両浙塩法を正して私鬻の禁を寛めるよう請い、紹興・永裕・昭慈二陵の官地が民地と犬牙相入していたことについて、重価で県が買い取り民に券を持たせて献納させ誤って犯す罪を免れるよう請うた。特に治獄に明るく獄はこれによって空となった。刑部侍郎を拝し、追放や累赦にあっても未だ帰れぬ者を湔洗(赦免)すべきこと、申請条制が重複牴牾していることの太煩を、諸々の編置が赦にあっても原(免)されず蔭にも論じられぬ類が太重であることを言い、外路の刑獄が三経翻異して大理へ送られる中で刀鋸(重刑)が数多く施され遠地に及ばぬことなどをすべて改めさせた。また儲蓄の拡大・鼓鋳の興隆・屯田の整備・郷兵の設置を請い、いずれも聴納された。
  • 権戸部侍郎を兼ねた頃、久雨により蚕麦が傷み辺報に警あることから侍従・台諫に弭災禦侮の策を詔問された。運は「天災人事には甚だ畏るべきで畏れざるを得ないものがある、我が政の修不修を視るのみ。甚だ憂うべきで憂わざるを得ないものがある、我が自治の善不善を視るのみ」と述べ、辺境の淮に三大鎮を建てて守るべきことを言った。金人が盟約を破ると特に戸部侍郎に遷り餉饋を専管した。丞相陳康伯が李寶を四明から遣わして海道を制御しようとする議は衆論紛紛としたが、運は直入して上策として賛決、金人は果たして敗走した。これにより上疏し将士を撫すよう詔を降し租賦を蠲じ信使を遣わし豪傑を結び城守を堅めることを乞い、漢中の将士に督励し関陝に趨いて敵の後方を制すること、両淮・襄漢の間に四鎮三帥を置いて内固と進取を図ることを説き、御営随軍都転運使として上(帝)の江上での労軍・還駕に随行、入対して固く外任を求めたため集英殿修撰として出でて知太平州となった。

晩年

  • 太平州は兵饑疾癘の余波の中、殫(尽力)して民を安んじ、斥堠・攻守の備えを厳しくし、財賦を整理し戦艦を造り甲兵を繕い禁令を申し明かし、民はこれによって安んじた。孝宗が受禅すると運もまた老を請い、敷文閣待制・提挙江州太平興国宮となり、まもなく広東経畧に授けられるが赴かず、また祠禄に復した。乾道7年(1171年)鄱で大飢饉が起こると運はまず粟二千石を発してこれを賑わし、これより民も争って粟を出して救済に協力した。度々致政を上章したが許されず、疾により卒した。少師・左光禄大夫を贈られ、官はその後三人に及んだ。嘉定6年(1213年)開府儀同三司を贈られた。