出自と呉曦への反抗の萌芽
- 楊巨源、字は子淵。その先は成都の人で父の信臣が益昌に客居しそのまま家を成した。巨源は倜儻として大志があり騎射に善く諸子百家の書を渉猟したが、進士に応じても中らず武挙にも中らなかった。劉光祖が見て異とし総領銭糧陳曄に薦め、右職をもって鳳州堡子原倉官に挙げられた。馳騁射猟に長じ財を傾けて士を養い、沿辺の忠義の者は皆その才に服した。魚関糧料院への差遣に分かれ、興州合江贍軍倉を監す。
- 呉曦が叛くと巨源は密かに討賊の志を持ち、義士三百人を結んでその糧を給した。遊奕軍統領の張林は両石弓を挽く力があり、隊将の朱邦寧は身長六尺で勇力人に過ぎており、いずれも曦に忌まれ屡々戦功があってもこれを賞されなかった。林らはこれを憾みに思い、張林は置口に、邦寧は合江にいたため、巨源はこれと深く相い締結し忠義人朱福・陳(闕)・安傅檜らの徒を集めた。曦は安丙を丞相長史に脅していたが、丙は疾と称した。
安丙との連携
- 眉士程夣錫が丙に見え、丙が嘆じて「世事がこのようになった、世に豪傑がいない」と言うと、夣錫はこれにより巨源の謀を及ぼした。丙は「(巨源は)私に会うだろうか」と問い、夣錫に書を託して巨源を招かせ、卧所に延いて会うと巨源は「先生は逆賊の丞相長史となったのか」と言った。丙は号泣して「目の前の兵将は私の知るところではない、奮起できず必ず豪傑を得てこの賊を滅ぼせば私はもう憂いがなくなる」と答えた。
- 巨源が「先生の意は決まっているのか」と問うと、丙は天を指して「この賊を誅すことができれば死んでも忠鬼となる、何を恨むことがあろうか」と誓った。巨源は大いに喜んで「先生でなければこの事を主導できない、巨源でなければこの事を成し遂げられない」と述べた。
- 一方、李好義・好問もまた李貴・楊君玉・李坤辰ら数十人を結んでいた。坤辰が巨源と好義の会を取り持ち、巨源は大いに喜んで「私は安長史と三月六日に曦が廟に謁するときに邀えて勇士に刺させることを議した」と言うと、好義は「彼が出れば齪巷から従衛する者は千人にも及ぶだろう、事は難しい、熟食日に東園で祭る時こそその時だ」と述べ、巨源はこれに賛同した。好義は一度長史に会いたいと願い、巨源は「私が先に長史に言おう」とし、翌日偽宮で長史(丙)が「君は先世が誰か」と問うと巨源は好義の事を告げた。
誅曦計画の実行
- 翌日、好義は偽宮で丙に謁見し揖すると、丙は「卿の父とは同僚だった」と述べ、楊省幹(好義)とも盛んに才略を語り朝夕職事を委ねることを述べ、謀は決した。君玉は先にその郷人に子申(曦の詔文の作者)の擬詔文が雅馴でないと言わせ、巨源がこれに代わって作り合江倉の朱記を用いた。巨源・好義は事が漏れることを憂え、三月乙亥未明、好義はその徒を率いて偽宮に入り、巨源は詔を持ち馬に乗り自ら奉使と称して入った。
- 内戸で曦は戸を開けて逃れようとしたが、李貴がこれを執えて殺そうとし、衛者が初め拒戦したが詔があると聞いて皆退いた。巨源・好義は丙を迎えて詔を宣し、曦の首を三軍に狥し丙を推して四川宣撫使を権に権り、巨源は参賛軍事を権った。丙は功を朝廷に奏し巨源を第一として承事郎に補する詔が出た。
孫忠鋭の誅殺と朝廷への不満
- 巨源は丙に「曦は死んで賊の胆は破れた、関外四州が蜀の要害として奪還すべきだ、乗じて取るべし」と言い、好義もこれに賛同したが、丙は軍に見糧がないことを慮った。巨源は四州を取らなければ後患があると力言し、自ら随軍措置糧運を請い、好義に西和州を、張林・李簡に成州を、劉昌国に階州を、孫忠鋭に散関を復させることを分遣した。まもなく巨源は朝奉郎に転じ通判差遣兼四川宣撫使司参議官を授かる。
- 丙は素より忠鋭を悪んでおり、忠鋭が散関を失守したと聞くと還らせて廃そうとし、まず巨源を邦寧と共に沔兵二千で策応させた。巨源が鳳州に至り忠鋭が出迎える機に幕後に壮士を伏せて突出させこれを斬りその子揆も併せて誅した。丙は忠鋭が偽(曦)に附した罪をもって賀表を朝廷に聞こえさせ待罪した。この頃、金誅叛の詔書が沔州に至ったが、巨源は「詔命に一字も巨源に及ばない」ことを人に語り、自らの功が蔽われることを疑った。
- まもなく王喜が節度使を授けられたことが報じられ、巨源は益々平らかならざる気持ちを抱いた。趙彦呐が䕫州にあって禄禧を誅した罪で通判を得たことがあり、巨源は「禄禧を殺しても通判、呉曦を殺しても通判なのか」と述べ、丙への謝礼の啓に「飛矢もて聊城を下したことを聊城人(魯仲連)の高誼を深く慕う、印を解いて去るのは彭沢(陶淵明)の清風を庶幾う」と書いた。また興元都統制彭輅に書を遣って韓侂胄に贈ろうとしたが輅は表面上許しつつ陰で丙に告げた。
疑いを受けての誅殺
- 誰かが巨源とその徒米福・車彦威が乱を謀っていると言い、丙は王喜にこれを鞫させ福・彦威は罪に伏した。正将陳安がさらに巨源が死士を結んで関に入り沔州州治を焼き丙が出た隙に殺そうとしていると告げた。丙は前事を積みこれによって巨源を除こうと考えたが未だ発する機がなかった。ちょうど巨源が鳳州で檄書を金の鳳翔都統に遺わし、その辞は間者を用いるかのようで、自ら宣撫副使を称し参議官の印を用いて印していた。金がこの檄を丙に至らせると、巨源はちょうど金と長橋で戦って敗れていた。
- 丙は書を移して巨源を召したが巨源は疑った。梁泉主簿高岳成なる者が巨源の推薦により随軍撥運となり見えに来て巨源に帰るよう説き、巨源はこれを信じた。この時彭輅はすでに沔にあり、六月壬申、巨源が幕府に還ると丙は密かに輅に巨源を収めるよう命じた。巨源は全く知らず己を訪ねてきたと思い、語り終えて輅が起つと巨源はこれを送ったが、賓次の武士がその裾を挽き、巨源はなお叱ったが、既に庭下に驅られていた。
処刑と後世の評価
- 巨源は「私に何の罪があるのか」と大呼したが、丙は屏を隔てて人を遣わして「お前が宣撫副使を詐称した罪により械送閬州の獄とする」と告げさせた。巨源は「私は一時の間諜のため用いた計だ、いつか必ず私のために事を明らかにする者が現れる」と述べた。丙が肴酒を餉わせると巨源は「一身に愧じるところはない、死んでも憾みはない、ただ未婚の妹がいる、宣撫にはこれを念じてほしい」と言った。
- 癸酉、巨源の舟が大安の龍尾灘に至ったとき、将校樊世顕が岸で呼ばわり、巨源は殺されることを知り「ここはよい墳地だ」と指して語った。世顕は「どうしてそのようなことがあろうか」と言いつつ舟が数歩進んだところで「宣参は久しく渇いているだろう、少し酒を進めよう」と言い、巨源は飲まないと辞退した。「宣参は械を長く荷っている、少し休むべきだ」と言うと、巨源が答える前に左右が利刀を取り出しその頭を斬ったが一寸ほど繋がったままで絶えなかったため巨源は自ら殪れて死んだ。宣撫司にこれが聞こえて数日後、丙は埋葬を命じた。
- 巨源の死に忠義の士は扼腕し聞く者は流涕した。剣外の士人張伯威が文を作って弔い、その辞は特に悲切であった。巨源が属吏であったとき、李璧は政府にあってこれを聞き「ああ、巨源はその死を招くだろう」と述べた。丙は人情が洶々としたため封章して免を求め、楊輔も丙が巨源を殺したことは必ず変を招くと述べ、劉甲をこれに代えるよう請うた。
- 当初、巨源は好義と官軍を結び、丙は密かに反正の計を為していたが、それぞれ相い知らなかった。巨源を好義に合わせたのは李坤辰であり、好義を丙に合わせたのは巨源であった。巨源は劉光祖に書を遺し丙の酬答の語を述べ、これが鋟梓(版行)されて広く伝わり丙はすでに悦ばず、疑いが深まる一方でこの禍を成すに至った。
- 成忠郎李珙が投匭して巨源伝を作りこれを訟え、朝廷もその功を念い廟を賜って忠を褒め宝謨閣待制を贈った。その二子に対しては制置使崔与之が官給の塟を請い、宝謨閣直学士・大中大夫を加贈された。嘉熙元年、理宗は特に諡「忠愍」を賜った。子の履正は大理卿・四川制置副使に終わった。