宋史卷四百一 列傳第一百六十 李孟傅

出自と権臣龍大淵への抵抗

  • 李孟傅、字は文授、資政殿学士李光の季子である。李光が嶺海に謫せられたとき、孟傅は僅か六歳で母を奉じ郷に居し志を刻んで学に励み、賀允中・徐度は皆その竒才を認めた。曾幾はその孫龍大淵を娶らせようとしたが、浙東総管が孟傅を名門の子と知り、辞試に及んで語らせようとしたとき、孟傅は正色して辞退した。江東提刑司幹辦、浙東常平司に易わり、母の喪に免し江山県丞に調任、これを棄てて南岳廟を監し、行在編估局に赴かず楚州司戸参軍に改まる。
  • 単車で赴官し公退後は戸を閉じて『易』を読み、郡守・部使者は敢えて属吏として待遇しなかった。徐積の墓が境内にありながら蕪没して久しかったのでこれを修葺し、陳公塘の灌漑の利を修復した。象山県知事として国内最良の邑主とみなされ、召見された従官の多くがこれを重ねて薦めた。

趙汝愚への忠誠と韓侂胄への諫言

  • 官告院主管、同列と共に封事を上げ北宮(重華宮)に詣でるよう請い、宰相に移書した。将作監主簿に遷る。丞相趙汝愚が初めて当国した折、たまたま大祲(凶事)があり孟傅を遣わして江・池・鄂三大軍の屯積粟を按視させ、太府丞に転じる。
  • 復命後、汝愚が去国し党論が起こったが、孟傅は使事を全うし失指なく、面対では使事の往返四千里で見た民生の困窮・衣食の不足を述べ、国の安危は民を本とし今は根本が既に虚しく形勢が見えている、保邦の慮は聖念に勤めるべしと言った。この頃、韓侂胄が留正・汝愚を連続して逐い、太府簿の呉璹が侂胄と姻戚関係にあり台諫が朱熹を論じようとしていると言ったとき、孟傅は憤然として「そのようなことがあれば士大夫は鼎鑊にあっても争う」と言った。
  • 考功郎官を兼ね、対で国家が人材を長育するのは天地が植物を滋液渗漉し既に成るを待って初めて大厦の用に供するのと同じであると論じ、今の士大夫が皆苟進の心を持ち治功は未だ優れず功能は未だ薄いのに意が台閣に馳騖していることを扶持正飭しなければ弊は甚だしくなると述べた。武挙及び軍士の比試が専ら力のみを取り臨敵しては必勝しがたいこと、唐の取人が歩射・弓弩から馬射に至るまで中の多寡で等級としたことを採用すべきと言う。

韓侂胄誅後の再登用と晩年

  • 韓侂胄はかつて孟傅に意を通じたことがあったが、孟傅は「六十歳になり去る意はすでに決した」と謝すと侂胄は慙じて退いた。外に江州知事を請い、獄訟が止息したが侂胄は悦ばず、帰ることを丐した。処州知事に復し、広西提点刑獄に遷り、江東常平提挙に改まり福建に移る。詔で入対を命じられると人を用いるにはまず気節、次に才能を先とし忠讜を招徠して正論を扶けるべきと論じ、政府にいた故人が書を寄せて労を問うたとき孟傅はその意を知り「孤蹤久しく朝せず、一たび清光を望んで去れれば幸いだ」と謝し、対を終えると即座に関を出た。閩に至ると大飢饉で廩を発いて分を勧め民に流莩なきようにした。
  • 侂胄が誅されると提点刑獄に遷って江東に移るがまた辞す。丞相史彌遠は姻戚であったため人は孟傅の進用の時と見たが卒に節を守り角巾のまま帰り再び祠を奉じた。倉部郎で召されるがまた辞し、浙東提点刑獄に遷る。数月経たぬうちに前請を重ねて章を再上し、直秘閣を加えられ江東に移るが赴かず、明道宮を主管し直宝謨閣に進み致仕。卒去、年八十四。常にその子孫を誡めて「身を安んずるには競わないのが一番、身を修めるには自ら保つのが一番、道を守れば福が至り禄を求めれば辱が来る」と述べた。著書に『磐渓集』『宏詞類槀』『左氏説』『続史雑志』『記善』『記異』等がある。

史論

  • 古の君子は出処が一様ではないが、同じところに帰結するのみである。辛棄疾は大義を知って宋に帰し、何異は篤実な君子として光宗朝の重華宮への切諫に努めた。柴中行はどうして臨川の試験で校べられなかったろうか、しかし終始「私は程頥を偽学と言わない」と屈しなかった。劉爚は朱熹の四書を表章して勧講に備えた、衛道の功はこれより大きいものはない。李孟傅の立てるところはその父(李光)に恥じない。劉宰に至っては飄然として遠く引き、屡々徴されても起たなかった、いわゆる「鴻飛冥冥」(大空高く飛び去る鴻雁)とはこの人のことであろうか。