宋史卷四百 列傳第一百五十九 楊大全
楊大全、字は渾甫。眉之青神の人。乾道八年の進士。光宗が重華宮(孝宗)に赴かないことを憂い三度上疏して切諫した。のち韓侂胄の招きを拒み節を守った人物。
光宗への諫言
- 楊大全、字は渾甫、眉之青神の人。乾道八年進士、温江尉に調任し邑を摂して政声があった。紹熙三年召されて監登聞鼓院に除せられる。五年、光宗が疾のため久しく重華宮に省せず廷臣の多くが諫論する中、太学生汪安仁ら二百余人が上書し、龔日章ら百余人は投匭上書が緩やかであると必ず伏闕しようとした。大全は「院は登聞と名づける以上、耳目に明達な地であるはずだが、今は具文にすぎないと見なされている、私は何の顔があってこの職に居られようか」と述べ、書を作って諫め上宮を訪ねるよう力請したが、書は上げられたが報われなかった。
- 大全はここに三度上疏し、その大略は、忠君の志は義に死ぬことを畏れず栄えて生きることを畏れず、言うことで罪を得ることを恥じとせず言うのに従われないことを恥じとするというもので、古来諌めが効かなかった場合、大者は身が斧鑕に膏し、次は流竄四裔され、小者もなお終身罷免されるものであった、それが今日のように聴従にも努めず黜逐にも及ばず、ただ譴呵しないことの恩を餌として皆に富貴を貪らせ豢養に甘んじて風節を消靡させれば、平居は貪禄懐姦の士ばかりとなり、難に臨んで節に殉ずる者がいなくなるという内容であった。
- 陛下が夏秋以来執政・従官の死んだ者を皆信じなかったが、卒に果たしてその通りとなった、建康の趙済、武興の呉挺が死したのに今なお信じなければ、幾微の兆しにおいて諫めるべきことを陛下に諫められようか、万一変が蕭牆に起こり禍が肘腋に生じれば陛下は必ず信じずに危亡を坐受することになると述べた。
- 盗が山東に満ちても髙斯が権を弄んで二世が知らなかった例、蛮寇が成都を襲っても勝報を偽って明皇が知らなかった例を挙げ、これらは左右が聾瞽であったからだが、今在朝の士が忠を瀝いで告げても陛下が聴かなければ、陛下自ら聡明を壅蔽していることになると論じた。夀皇が越や呉興に幸するとの噂が流れているのは陛下を深く愛するがゆえにその跡を泯そうとするものであり、陛下は急いで夀皇の憂いを解く術を図るべきと述べたが、疏は入っても報われなかった。
韓侂胄の招きへの拒絶と晩年
- 寧宗即位後、宗正寺主簿に遷る。慶元元年、太常寺主簿に易わり、司農寺丞に遷り、高宗実録を修す検討官を兼ねる。この頃、韓侂胄が用事し台諫の選を自らの羽翼とし、知名の士を得てその望を借りて羣言を弭めようとしており、当時の好進の者はこの選に与れないことを恨むほどであった。
- 御史の虚位に大全を強く薦める者があり、大全に一度会うよう促す者が「公は朝見すればすぐ除目が下る」と言ったが、大全は笑って謝絶し決して赴かなかった。翌日、外に出ることを願い出た。この時、高宗実録がまさに上呈されようとしており、上は必ず恩を推すはずであったが、大全は去ることを待たなかった。これにより金州知事に除せられ、姑蘇に至って病で卒去。
史論
- 王信は文学があり政事に通じ、汪大猷は敦厚老成であり、袁燮の学には拠り所があり、呉柔勝・游仲鴻は名を偽学に列せられた。李祥が趙汝愚を訟えた公論はこれによって籍甚たり。王介・楊大全は道を直くして行い、宋徳之はその兵を知る者であろう。