宋史卷四百 列傳第一百五十九 宋徳之

出自と兵学

  • 宋徳之、字は正仲。その先は京兆の人で、隋の諫大夫が彭山に遠謫され子孫が蜀に散在し蜀州の人となる。徳之は挙に応じて慶元二年外省第一に擢され、山南道掌書記となり召されて国子正に除せられ武学博士に遷る。諸生と八陣の象が八卦に本づき皆動物であること、竒正の変が往来相生して窮まらないことを議論した。
  • 編修枢密院に遷る。兵釁の兆しがあり赤眚が現れ太陰が権星を犯し北門の鴟尾が災し三省六部に延焼した際、求言の詔に応じ、離は火・日・甲冑を為し坎は水・月・盗・隠伏を為すため、火が性を失えば赤気が現れ憂いは甲兵にあり、水が性を失い太陰が度を失えば憂いは隠伏にあるとし、当今の至切な問題七事を疏した。「人火の小変は憂うるに足りないが、天象の変は臣は密かにこれを危ぶむ」と述べ、また「今、敵はまだ動いていないのに軽々しく祖宗の旧制を変え武臣に辺境を統帥させるのは自ら患いを遺すことになる、晋の叛将・唐の藩鎮の禍はここに基づく」と述べた。当時、呉曦が西陲に、皇甫斌が襄陽に、郭倪・李爽が両淮にあり、徳之は予めこれを憂慮していた。

呉曦の乱への対応と安丙擁護

  • 太常丞に除せられ閬州知事として出向、呉曦の変が起こると足を挫いたと称して偽事に関わることを避け、乱が平定されて始めて閬州に赴任、本路提点刑獄に抜擢された。制帥安丙は徳之が君命を軽んじ代者の到着を待たず観察使の印を用いて事を領したことを奏し、詔で一官を降され潼川路転運判官・湖南路提刑に改まる。
  • 湖北の提刑に召され兵部郎官となる。朝論に安丙への疑いがあったとき、丞相史彌遠が首に徳之に問うと、徳之は「蜀に安丙がいなければ朝廷に蜀はない」と答え、人に大功があれば実に私嫌をもって公議を廃さないとし時相の意に逆らった。これに感じ入った安丙は人に「丙は正仲を知らないが正仲は丙を知る、丙は正仲に負ぶが正仲は丙に負かない」と語り、徳之に婚を請うたが徳之は許さなかった。論者は徳之の賢をますます称した。眉州知事に起用され、特奏名の試験中に病を得て卒去。

先祖の逸話

  • 徳之の祖父耕は性剛介で、ある朝突然官を棄てて去り行方を知らない。伯父の廉が徳之に「私は昔臨安府に至ったとき、蜀に宋宣教という者が浙江を過ぎて去ったと聞いた者がいた、私はちょうど越に赴きこれを求めたが四明に入ってしまっていた」と語った。徳之は浙江を渡って尋ね訪ね、雪竇に至ると蜀僧が「山の後に爛平山があり三人の居士がいる、その一人が宋宣教だと耆老から聞いた」と言い、徳之は爛平によじ登り丹竈を見てその上に祠を置いて帰った。