宋史卷四百 列傳第一百五十九 李祥

出自と初任の名裁定

  • 李祥、字は元徳、常州無錫の人。隆興元年進士、銭塘県主簿となる。姚憲が臨安の尹であったとき録参の代行を命じられ、邏者が巧発を能として毎事有司を鍜鍊し囚服させていた。ある武臣の子が朝政を謗ったと誣告され獄に鞫せられたとき、祥は邏者を門に入れずに調べたところ告発は実がなかったため尹に白した。尹は「上命に実なしとは」と驚いたが、祥は「実がなければ即座に譴責を甘受する」と述べたところ姚憲は祥の意の通りに論じ、上は「朕がほぼ誤るところだった、卿は我が争臣だ」と驚き、姚憲に出身を賜り、祥を諫大夫とした。

地方官としての公正な裁決

  • 濠州録事参軍に調任。安豊守臣が民田を冒占した訴訟が屡々攻めても決せず、監司が祥に委ねると民に帰した。まもなくその人物が守を易えたため嫌を避け司理廬州に換え、守が出向く際改官を奏留したが認められなかった。
  • 戸部架閣文字主管、太学博士、国子博士、司農寺丞、枢密院編修官兼刑部郎官、大宗正丞に転じ、朝蹟八年在外し賢才が多く更に出迭入すべきと言い、内臣として出て淮東常平茶鹽提挙、淮西運判となる。両淮の鉄銭が不定であったため、祥は疏を上げ官が銭米を賜り濫悪銭を廃し、定城・興国・漢陽監で紹興新銭を鋳造し直すよう乞い、これに従われ淮人は安んじた。

趙汝愚のための弁護と失脚

  • 国子司業、宗正少卿、国子祭酒に遷る。丞相趙汝愚が言によって去国すると、祥は上疏して争い、夀皇(孝宗)崩御の際、両宮が隔絶し中外が洶々とし留正が印を棄てて逃げ国命が糸一本の危うさとなった時に、汝愚は滅族を畏れず策を決して陛下を立て、風塵動じず天下は再び安んじた、社稷の臣であるとし、その功に念いを致さず礼遇を軽んじては忠節の士に対して後世にどう示せようかと論じた。直龍図閣に除せられ湖南運副となる。言者に劾せられ罷免され、太学の諸生楊宏中・周端朝ら六人が上書して留めることを求めたが皆罪を得た。沖佑観を主管、再び直龍図閣致仕を請う。嘉泰元年八月に卒去、諡は肅簡。