経歴
- 張巖は字を肖翁といい、大梁の人、揚州に家し紹熙末潮州に渡江居住した。機警で柔回、諧を善くする人柄であった。乾道5年進士第、監察御史として張釡・陳自強・劉三傑・程松らと共に時相韓侂胄に阿附し、当時の賢者を誣逐し道学の禁を厳にした。殿中侍御史に進み、累遷して給事中、参知政事に除せられるが言者に罷免され資政殿学士知平江府、大学士に進み揚州知事。時に辺釁が方に開かれ、詔で巖は程松と両淮を分帥した。参知政事兼同知国用事に召還、開禧2年(1206年)知樞密院事に遷り、翌年督視江淮軍馬に除せられる。
- 方信孺が金へ議和使に赴き、呉曦の蜀叛が未決の中、曦誅殺後信孺が再び行くこととなった際、侂胄は巖に畢再遇・田琳に合兵させ敵を勦り生擒偽帥を募ることを催促した。まもなく川陝の戦は屡々衂れ大散関が陥落し敵情がまた変わった。巖は督府を開くこと9ヶ月、県官の銭370余万緡を費耗したが、和議が反復するのを見て「兵を知らず」と称し辞去を求めた。侂胄誅殺後、御史章燮が巖と蘇師旦の朋姦誤国を論じ両官を奪われたが、寧宗は兵釁が方に開いた時期に巖がその不可を言ったことを述べ自便を許し、まもなく元官を復し奉祠に付され、銀青光禄大夫致仕、薨、特進を贈られた。
史論
- 史浩は心を平恕に置いたが、その君の恢復の謀を助けることはできなかった。王淮は偽学の禁を設け善類を毒痡した。趙雄は虞允文と協謀して用兵を進めたが、旧史が二人が張栻を沮抑したとするのはどういうことか。邦彦は城を守り力戦したが、呂頤浩を助けて李綱を攻撃したことは君子がこれを少しとした。程松・陳謙・張巖の誣諂の徒は何ら数えるに足りない。