宋史卷三百九十三 列傳第一百五十二 黄度
黄度は字を文叔といい、紹興新昌の人。兵政に通じ、蜀将呉挺の子・呉曦の兵権継承の危険を予見した監察御史。光宗の重華宮不朝を痛烈に諫め、寧宗朝では韓侂胄の専権に抵抗し続けた。嘉定6年(1213年)卒去。
出自と生い立ち
- 黄度は字を文叔といい、紹興新昌の人。学を好み読書し、祕書郎張淵はその文を曾鞏に似ると評した。隆興元年進士、嘉興県知事。
兵政の建言と光宗への諫言
- 監登聞鼓院、国子監簿として、当時の養兵が国の巨患であるとして「民を屯田・府衛に復し募兵を減らすべき」との策を『屯田府衛十六篇』にまとめて上奏した。
- 紹熙4年(1193年)監察御史として、蜀将呉挺の死に際し子の呉曦が兵権を継ぐことの危険を予見し「兵柄を分けるべき」と請うたが宰相が難色を示し、後に曦は関外四州を金に売り王位を求め、度の言の通りとなった。
- 光宗が重華宮に朝せぬことを痛烈に諫め、上疏を重ね、父子相親の義を極論、また太白昼見・熒惑勾芒(天文の異変)を挙げてこれが乱兵入宮の兆しであると警告したが諫めが聞かれず去ることを求めた。孝を以て君に事えるべきとし、自身の父が80歳近く菽水も親しくできぬままひと月ふた月が経っていることを引き合いに「親に事えることこれの如くにして、いかにして君に事える忠を為すか」と述べた。台諫官と共に内侍陳源・楊舜卿・林億年の三人を「今日の禍根、李輔國より罪が大きい」と弾劾した。天下有道なれば庶人議せずとの孔子の言を引き、人主に過ちあれば公卿大夫が諫めて改めれば過ちは表面化しないが、諫めても改めねば閭巷小人まで妄議し陳勝・呉広・黄巣の類のように国が乱れて亡びると論じ、今の天下は聖徳を議さぬ者なしと警告したが聞かれず、去ることを求めた。上は職に安んじるよう諭したが、度は「言責の者は言が用いられねば去るのが理、復入は難しい」と述べた。
寧宗即位後、韓侂胄との対立
- 寧宗即位後、御史に復し右正言。韓侂胄が用事し丞相留正が去った際、侂胄は度がかつて留正と論の合わなかったことを知り度を利用して留正を排斥させようとしたが、度は同列に「丞相は既に去った、これを擠るのは容易だが、小人の勢いを長ずるのは可か」と語った。
- 侂胄が政柄を専らにし好悪で威福を為すのを見て度は疏を具えてその姦を論じようとしたが侂胄に察知され、御筆で度は直顯謨閣・平江府知事に左遷された。度は蔡京の擅権が天下を乱した例を引き「侂胄が御筆を仮りて諫臣を逐い、俯首させ一言も効せぬようにするのは国の利ではない」と固辞した。丞相趙汝愚がその疏を袖に入れて上に達し、詔で冲祐禄により帰養が許された。まもなく婺州知事となるが、県令張元晦の贓罪を発覚させられなかった罪で降罷。この頃から紀綱は一変し、大権は皆侂胄に出て党論が起こった。侂胄は素より度を厳しく憚り害さなかった。
地方官としての施政
- 泉州知事に召されるが辞し、進んで寳文閣奉祠にとどまった。侂胄誅殺後、天子は度を思い召し、太常少卿・国史院編修官実録院検討官を兼ねた。朝論が侂胄の首を函にして泗州の五千人と交換しようとした際、度は「国を辱める」として反対した。
- 権吏部侍郎兼修玉牒・同修国史・実録院同修撰、病により集英殿修撰知福州に移り、遷宝謨閣待制。福州に至ると訴訟牒が日に千余に及んだが度は随事裁決し日が暮れる前に終えた。龍圖閣に進み建康府知事兼江淮制置使、金帯を賜って赴任。金陵に至り科糴輸送の負担を罷め饑民百万口を活かし、現税二十余万を除き、盗の卞整を降し胡海を斬首して招帰業九万家を得た。侂胄が募った雄淮軍のうち屯を持たぬ数千人に、人ごとに銭四万を給して復役させ憂いを解消した。宝謨閣直学士に遷り、人物を己が任として推挙を怠らず「毎日国に報いる術はこれのみ」と語った。十度、老いを理由に辞去を願うが許されず、礼部尚書兼侍讀となり、藝祖(太祖)が万世の統を垂れたことを一に純儒生の登用、二に民力の惜しみにあるとして上奏、上はその言を納れた。
- 病を理由に去ることを願い、煥章閣学士として隆興府知事、越州提舉萬夀宮に帰った。嘉定6年(1213年)10月卒、龍圖閣学士を追贈、通奉大夫を贈られた。
学問と著書
- 度は経世を志の本とし、詩書・周礼説を著し『史通抑僣』を作り編年体で天文地理井田兵法を論じ、近くから遠くまで拠り所があり迂陋牽合の病がないと評された。他に『藝祖憲監』『仁皇從諫録』『屯田便宜』『歴代邊防』が世に行われた。
婿の周南
- 婿の周南は字を南仲といい、平江の人。16歳で呉下に遊学し、時人の科挙業を陋しとし、葉適について講学して頓悟し文詞は雅麗精切、時用に達した。世道の興廃を己が任とし、紹熙元年進士第、池州教授。黄度が言事で当路に忤い罷免された際、御史が度と共に南を弾劾し罷免、度と南は共に偽学党に入った。開禧3年(1207年)館職試に召され、対策で権要を批判し弾劾され罷免、家で卒した。行いは端正で身を持すること尺寸の程あり、賜第から一度も官を進めず、既に当世への意を絶ち、敝衣悪食で書を挟んで昼夜を忘れ「これは私の老いを遺し死を俟つ所以」と語った。