宋史卷三百九十三 列傳第一百五十二 羅㸃

羅㸃は字を春伯といい、撫州崇仁の人。嘉王(後の寧宗)の教授、侍御史として光宗の重華宮不朝を繰り返し諫めた。端明殿学士簽書樞密院事として明堂の儀に扈従中に病を得て享年45で卒去、諡は文恭。

年表(3件)

出自と生い立ち

  • 羅㸃は字を春伯といい、撫州崇仁の人。6歳で文をよくし、淳熙3年進士第に登った。定江節度推官を授けられ、校書郎兼国史院編修官に累遷。

旱害の際の上疏と嘉王教授

  • 旱害の年、詔で求言があり、㸃は上封事し「今の時世は姦諛が日増しに甚だしく、議論は凡陋で可否を明らかにせず、世に迎合すれば『体を得ている』と言い、皆黙する中で独り言えば『沽名』と言い、皆濁る中で独り清ければ『立異』と言う。この風潮を改めねば陛下が天下のために大いに為そうとしても及ばない。旱が虐威をふるって以来、羣祠に祈り罪人を赦しても効果がなかったが、朝に讜言を求め夕べに甘雨を得た、天心の示すところは明らかだ。陛下の求言が真に用いる意志によるものか」と問い、上封事を反覆詳熟して当たれば行い疑わしければ咨って決すべきと説いた。
  • 祕書郎兼皇太子宮小学教授に遷り、寧宗が皇孫として英國公に封ぜられた際、教授を兼ね、講義は日暮れまで休まず、左右が休息を勧めても「国公が務学に休みなし、なぜこれを止めるのか」と応じた。古事を摭って『鑑古録』を進呈した。
  • 高宗崩御、孝宗が諒闇中、皇太子(光宗)が庶務を参決した際、㸃は戸部員外郎兼太子侍讀として浙右に出使した。起居舎人に遷り、太常少卿兼侍立修注官に改まる。

金への使いと光宗への諫言

  • 金への告位使に命じられた際、金に国喪があり金帯を替えるよう迫られたが、㸃は「登位は吉事、必ず吉服で臨むべき、死んでも帯を替えぬ」と拒んだ。また「寳位」の称号を金人が問い質すと、㸃は「聖人の大寳を位という、寳の字を加えねば至尊と区別できない」と答え、金人はこれを奪えなかった。光宗が「卿は旧宮僚、他人と違う、言いたいことがあれば遠慮するな」と述べると、㸃は「君子が志を得ることは少なく、小人が志を得ることは多い、君子は天下国家に志があり一己になく、行いも言も直道直論のため、人主に忤わずとも貴近に忤い、当路に忤わずとも時俗に忤う。小人は一己に志があり天下国家になく、行いも言も取悦の道のみ」と論じた。
  • 皇子嘉王が弱冠に及んだ際、師友を選ぶ時と述べ、黄裳を翊善に推薦した。人主が憂勤すれば臣下は心を協せ、人主が偷安すれば臣下は体を解くとし、道塗の噂に「陛下は毎朝視朝するが意は事になく、宰執・侍從・庶僚は備礼で対応するのみ、宮中の燕遊の楽・賜賚の奢侈の費が既に衆口に上がっている、強敵が国境にあるのにこの噂が出てよいのか」と論じた。
  • 紹熙3年(1192年)冬至の重華宮への朝賀が中止されたことに対し、天子から庶人まで節序の拝親を欠く者はいないと諫め、上が過宮を決めかねている中「夀皇は既に日を決められ心待ちにされている、常人でも朋友に信なくてよいはずがない、まして人主が親に事えることに」と説いた。便殿での対では「近ごろ中外で陛下が内に制せられて出られず酒色に溺れているとの噂がある、事実か」との問いに光宗「そのようなことはない」、㸃「臣もそう思うが、宮禁間に攖拂の事があり酒で自ら紛らわせているのではと推測している。閭閻の匹夫が閨門で逆境に遭い縦酒することはあっても、人主が天下を宰制する心は青天白日のごとくあるべき」と述べた。
  • なお過宮しない光宗に対し「嘉王の生朝に夀禁中を称して劬労の徳に報いている、父子が歓洽すれば動かぬ心はない」と述べた。11月、言が聞かれぬとして去ることを求めるも許されず。紹熙5年(1194年)4月、光宗が玉津園への行幸に際し先に重華宮を訪ねるべきと請い「陛下が夀皇の子であること40余年、一度も間言なし、ただ初郊で違豫(不調)があり夀皇が南内に至り左右の人を督したことから讒間が生じ憂疑を招いた。夀皇はとうに天下と相忘れて久しく、今は大臣が心を協せ百執事が法を守り、宗室戚里・三軍萬姓に貳心なし、離間があれば誅すべきだ」と述べた。上「卿らが朕のために調護してくれ」。黄裳「父子の親に調護など要らない」。㸃「陛下が一たび出れば釈然とする」。上はなお過宮せず、㸃は講官を率いて訴え、光宗「朕の心はいつも夀皇を思っている」、㸃「陛下は久しく定省を欠いており、この心をどう自ら表明されるのか」。

孝宗崩御前後

  • 夀皇の病篤の際、㸃は宰執の班に従い進諫、閤門吏に阻まれるも叱って入り、上が衣を払って起とうとすると宰執が裾を引き、㸃も泣いて奏し「夀皇の病勢は既に危うい、今会わねば後悔しても及びません」と述べた。羣臣が上に随い福寧殿に入ると内侍が門を閉じ、皆慟哭して退いた。三日後、㸃は独り引かれて入り、前日の献忠を陛下は罰せず、しかし裾を引いたのも故事があると述べた。上「裾を引くのはよいが、勝手に宮禁に入ってよいのか」。㸃は魏の辛毗の故事を引いて謝し、「夀皇には子は一人のみ、既に神器を付されたからには、一日も早く会いたいと思われるだけだ」と述べた。
  • 夀皇崩御、㸃は奔喪を願うが許されず、重華宮の前で遺詔を拝した。前後、侍從とともに帝の過宮を請う上奏35疏、単独上奏16章に及んだが、重華への上書や嘉王への面奏はこれに含まれない。
  • 寧宗嗣位後、人心が定まると㸃は端明殿学士簽書樞密院事に拝され、上の明堂の儀に扈従中、齋宮で病を得て卒した。享年45。太保を贈り「文恭」と諡された。

人物

  • 天性孝友、矯激崖異な行いはなかったが端介な操守を守り、義利の弁が明白であった。「天下事は力だけでは為せぬ、まず心を論じるべき、心が正しくなければ才があっても何の取り柄もない」と語った。宰相趙汝愚は寧宗に泣いて「黄裳・羅㸃が相継いで亡くなった、この二臣の不幸は天下の不幸だ」と語った。