宋史卷三百九十三 列傳第一百五十二 黄裳
黄裳は字を文叔といい、隆慶府普城の人。嘉王(後の寧宗)の翊善として経学を講じ、その信頼を得た。光宗が重華宮に朝せぬことを強く諫め続け、寧宗即位後は礼部尚書兼侍講となるが病を得て享年49で卒去した。諡は忠文。
出自と生い立ち
- 黄裳は字を文叔といい、隆慶府普城の人。若くして頴異で文をよくし、乾道5年進士。巴州通江尉に任じられ、学問と文詞をますます磨いた。
蜀での施政と嘉王府翊善
- 蜀の軍糧調達(和糴)が実質的な収奪であったため、裳は漢中で税を賦す際、総領李蘩に諷諫し罷めさせ、民は便を得た。興元府録事參軍。四川制置使留正の推薦で対策論じ、「中興の規模と守成は同じでない、進取には利便の勢を、行都には富国彊兵の実を、内外の守備には重鎮を」と説いた。行都は建康を、吏治は品式・資考による考課を、重鎮は漢中・襄陽・江陵・鄂渚・京口の五鎮を将相大臣で守らせることを主張した。
- 太学博士、祕書郎を経て嘉王府翊善に遷り『春秋』を講じ、「王正月」の解釈から「周の王が諸侯を号令できねば王とは言えぬように、帝が郡鎮を統御できねば帝とは言えない、今の郡県は古の諸侯にあたる」と説いた。王が「九都統とは何か」と問うと、裳は「唐太宗は18歳で義兵を起こして禍乱を平らげたが、今大王はそれ以上の齢でありながら九都統の説すら分からぬ、学に努めるべき」と答えた。
- 王が吳端に接した際の礼を見て、裳は『左氏』の礼の等衰を講じ「王者の学は事に見るべき、王が事に区別を持つのは等衰の義を得ている」と評し、王の学問への意欲は益々高まった。八図(太極・三才本性・皇帝王伯学術・九流学術・天文・地理・帝王紹運・百官)を作って献上し、それぞれ大旨を述べた。「学の道は心を以て体するべき、王は心を厳師とすべし」と説き、前代の危亡の事を挙げて戒めとした。王は人に「黄翊善の言は人の堪え難いところだが私だけがよく受け入れられる」と語った。
- 王が重華宮を訪ねた際、夀皇が読書の量を問い、王が答えると夀皇は「数は多すぎぬか」、王「講官の説明が明白で心楽しく、多いとは感じません」、夀皇「黄翊善の至誠の講じるところ、よく聴くべきだ」と述べた。渾天儀・地図を作り詩を添えて献じ、王が講じた三経を詩三章に作って進呈すると、王は喜んで置酒し自ら詩を書いて賜った。王が光宗の前で酒誥を誦じたことについて光宗が労うと、裳は「私は朱熹に及びません、熹は40年学んでおり、府寮に召せば必ず益があります」と謙遜した。光宗はこれを嘉納した。
紹熙年間の諫言
- 紹熙2年(1191年)起居舎人に遷り、「古来人君が諫言に従わぬ弊は私心・勝心・忿心の三つ、私心が勝心を生み、勝心が忿心を生む」と論じ、潘景珪の例を挙げて陛下がこれを庇うことの弊を説いた。
- 紹熙3年(1192年)中書舎人試み。武備の弛緩を論じ「夀皇在位30年、将士を撫循されたことに恩義を感じない者はいない」と説き、荆襄の要害(金が襄陽を衝き江陵に拠れば呉蜀は分断される)を挙げて鄂渚の兵を襄漢に移すことを提案したが聞かれなかった。
- 給事中に除せられ、趙汝愚が同知樞密院事となった際、監察御史汪義端が「宗室は執政となるべきでない」と汝愚を醜詆し免官を求めたのに対し、裳は「汝愚は父に孝、君に忠、居官清廉、憂国愛民は天性から出ている、青天白日のごとく明白、義端はこれを見誤っている」と弁護し、義端は外任に出された。裳自身もひと月足らずで瑣闥を去ることになったが、その間、韓侂胄の階官落とし・鄭汝諧の吏部侍郎除授など十数件の駁封を行った。
- 兵部侍郎に転じるも不拝、顯謨閣待制として翊善を続けた。光宗が重華宮に朝せぬことに対し、五日に一度の朝謁を請う疏を重ねて上奏、光宗「内侍楊舜卿が朕に過宮するなと告げた」に対し裳は舜卿を斬るよう請い、日々「恩を念じ怨みを釈く・讒を弁じ疑いを去る・己を責め天を畏れる・乱を防ぎ過ちを改める」の八事を奏したが返答されなかった。裳はかねて疽を病み憂憤で病が再発したが、なお「陛下が夀皇に孝敬の道を尽くしていないのは何か疑いがあるからではないか」として、焚廩浚井(放火・毒殺)の事、肅宗即位の事、衛輒父子争国の事、孟子責善の事の四つの疑いを一つ一つ理を尽くして解き、陛下が疑うべきでないことを述べた。孝宗が危篤になった際、光宗を強く諫めて入宮を促し、上が起って宮に入ろうとすると裳はその裾を引きながら宮門まで従い、涙を流して退いた。
- その後、待制・侍講・翊善の三職いずれもその責を果たせぬとして外任を三度連続で請い、闕を出て命を待つ間に夀皇の遺詔を聞き急ぎ臨んだ。
寧宗即位後と最期
- 寧宗即位後、裳は病のため朝せず礼部尚書に改められ兼侍講、病をおして謝を述べ「孔子曰く『有始有卒なる者は其れ惟だ聖人か』、『詩』に『初め有らざる靡く終わり有る克き鮮し』とある。有始有卒は心を持すること一なるによる、鮮克有終は心を持すること一ならざるによる」とし、陛下の初政の善が今後も続くか、大臣への委任・台諫の重用・篤孝勤学薄嗜好の三事がいずれも続くかへの懸念を述べ、魏徴の十漸の故事を引いて戒めた。
- また近日の除授に大臣が知らぬことがあると憂え、病が篤くなった。この時、韓侂胄は既に権柄を弄び始めていたが、宰相趙汝愚はまだ気づいておらず、裳は事前にこれを言っていた。病革る際、時々独語して「五年の功を一日で壊すな、私はもう無理だが後の君子が必ず責任を負う者があろう」と言い、遺表を口述して卒した。享年49。上は聞いて驚き悼み、資政殿学士を贈った。
人物
- 為人は簡易端純、講読のたびに事に随い忠を尽くし、気は平らかで辞は切実、事は該博で理を尽くした。篤孝友愛、人と語れば胸襟を尽くし、一書も読まず一物も知らぬことを恥じ、賢を推し善を楽しむのは天性であった。文は明白條達、『王府春秋講義』『兼山集』があり、伊洛(程朱学)の旨を発揮した。同郷の陳平父兄弟と講学し、平父は張栻の門人であり、師友の淵源には由来があった。嘉定中、諡「忠文」。子の瑾は太宗正丞兼刑部郎官、孫の子敏は刑部郎官。