宋史卷三百九十一 列傳第一百五十 周必大

出自と初任

  • 字子充、一字洪道、鄭州管城の人。祖父詵は廬陵に寓居した。紹興二十年(1150年)進士及第、博学宏詞科にも及第した。孝宗即位後、起居郎・中書舎人として経筵の充実、記注の整備を進言した。

給事中としての剛直

  • 給事中として権貴の官吏異動を封駁し、曾覿・龍大淵の任用に反対して張説を弾劾した。莫濟・周必大自身らが相次いで去り、直言の評判を得た。秘書少監として漢宣帝の故事を引き真儒の重要性を論じた。

兵部・礼部を経て執政へ

  • 兵部侍郎・礼部尚書として明堂典礼を整備し、皇朝文鑑の序を撰した。参知政事として大臣間の是非を率直に述べることを推奨し、金の使者への対応や国境防備策で見識を示した。知枢密院として山陽・襄陽の軍配置を巡り的確な判断を下した。

右丞相・左丞相

  • 淳熙十四年(1187年)右丞相拝命、変更を控え経遠の計を説いた。高宗崩御に際し金への服喪礼を守り抜き、光宗への内禅にあたっては協賛の任を全うして涙した。光宗即位後は左丞相となったが、留正らとの対立で解任され潭州・隆興府などに左遷された。

晩年と党禁

  • 寧宗即位後、韓侂胄の党派により偽学(道学)の首謀者とされ官階を落とされた。慶元元年(1195年)致仕、嘉泰四年(1204年)享年79で没した。諡文忠、著書『平園集』二百巻ほか計八十一種。