出自と科挙
- 字安国、歴陽烏江の人。紹興二十四年(1154年)廷試第一。策問で秦檜派の秦塤を退け首席となったため秦檜の恨みを買い、父張祁が投獄される事態となったが、秦檜死後に赦免された。
孝宗朝の要職
- 秘書省正字として乾綱総攬・冤罪是正・王安石『日録』の弊害是正を上奏した。校書郎・起居舎人・中書舎人を歴任したが、湯思退門下との関係から汪澈に弾劾され一時罷免された。
地方官と晩年
- 撫州・平江府知事として治績を挙げ、張浚の推薦で召還され和戦両論の調停を試みた。建康留守・広西経略安撫使・潭州知事・荆南知事を歴任し、金堤の築造など治水に功績を挙げた。病により致仕、享年38で没した。文才に優れたが和戦の間で立場を明確にしなかったことが惜しまれた。
史論
- 論に曰く、尤袤の学は程頤に基づき老成典型の臣として、君主と是非を争いながら終始を全うした。謝諤・顔師魯・袁樞は民を治めては実務に長け、朝廷に立っては忠諫を尽くし、世の模範となった。李椿・劉儀鳳はその言論と節操が行動に表れた。張孝祥は若くして才を負い政績を挙げたが、和戦の両論の間を揺れ動いたことを識者は嘆いた。