宋史卷三百八十八 列傳第一百四十七 周執羔

出自と初任

  • 字表卿、信州弋陽の人。宣和六年(1124年)進士に及第、殿試で徽宗により第二席に抜擢された。湖州司士曹事、太学博士を経て、建炎初年(1127年頃)高宗の江南への遷幸に従い、隆祐太后を江西に護衛した。継母の看病のため撫州宜黄県丞となり、反乱を鎮めて名声を得た。

紹興年間の歴任

  • 紹興五年(1135年)湖州通判に転じ、母の喪を終えて平江府通判、将作監丞、太常丞を歴任。明堂の大礼・雅楽整備に携わり、右司員外郎から礼部侍郎に進み、金への賀生辰使を務めた。属官の推薦にまつわる賄賂の慣行を拒絶し、科挙合格者への慶事(聞喜宴)を復活させた。秦檜の子の科第優遇に反対して秦檜の怒りを買い、御史に弾劾され罷免された。後に眉州・閬州・䕫州の知事や䕫路安撫使を歴任し、辺境の異民族の反乱を武力によらず鎮めた。

孝宗朝

  • 紹興三十年(1160年)饒州知事、のち敷文閣待制。乾道初年(1165年頃)婺州を経て侍講となり、王道・立国の要諦を説いた。人材登用について孝宗と問答し、暦学にも通じ、統元暦の誤りを正して暦議・暦書・五星測験を撰述して上奏した。軍費・和糴の弊害を論じ、災異に応じた減免を進言した。喪儀の場では宦官と一切私語せず清廉を保った。老齢を理由に何度も辞職を願い出て、乾道六年(1170年)享年77で没した。学識広く易に通じ、公正な人柄で知られた。