宋史卷三百八十七 列傳第一百四十六 陳良翰
陳良翰は字を邦彦といい、台州臨海の人。早くに孤児となり母に孝を尽くした。温州瑞安県知事として寛政を敷き、のち台諫官に進んで和議反対・張浚擁護を貫いた直言の士。享年65で薨去し、光宗即位後に諡を献肅とされた。
年表(1件)
- 紹興5年1135年進士に及第する
出自と諫言
- 陳良翰は字を邦彦といい、台州臨海の人。早くに孤児となり母に孝を尽くした。紹興5年(1135年)進士、温州瑞安県知事として、厳しい吏治が慣例の地で寛政を敷き、催租も文符に頼らず告示のみで民が競って納めるようにした。「術はない、ただ公なる心を虚堂懸鏡のように保つのみ」と述べた。
- 殿中侍御史の呉芾の推薦で検法官、監察御史に転じ、孝宗初年、金主完顔雍の新立に伴う和議・帰正人問題について「自治の計を定め、和不和はそれに任せるべき」と論じた。張浚の淮泗経略に対する防江策批判では「藩籬を固め任を専らにすべきで、淮を捨て江を防ぐのは却って地を奪われる」と論じた。
故疆論と和議への反対
- 右正言として、金の故疆返還要求に対し「中原は皆我が故土であり、唐鄧淮泗も金が渝盟後に取ったもので、故疆と称して返還を求める理由がない」と論じた。湯思退の小使・盧仲賢・李栻の起用にも反対し、「廟堂と督府の論議が異なり、辺奏が届いても唯々諾々としつつ陰でこれを阻んでいる」と鋭く指摘し孝宗を驚かせた。
- 史正志の建康での張浚との衝突を弾劾し、「陛下が浚に淮を守らせるなら、浚の去就を軽んじてはならない」と論じ正志を福建漕運に転出させた。楊存中の御営使再任にも反対し3度上疏、存中は結局罷免された。李栻の渡淮拒否も弾劾した。
- 仲賢が汴で金に疆土・歳幣を許した際、上は激怒し誅殺しようとしたが宰相の懇請で免れた。次いで王之望・龍大淵が使者となった際も良翰は「前使が既に辱命し、大臣が前失を悔いないのは秦檜の再来のようだ。4郡の兵を撤去して4千里の要害を金に渡すのは決して許すべきでない」と反対、胡昉・楊由義を審議官として先に交渉させることを主張した。
張浚擁護と晩年
- 湯思退が前議を執し、尹穡が思退に付き督府を揺るがそうとする中、良翰は左司諫として思退の姦邪誤国を厳しく論じ、張浚の起用を擁護。孝宗は「思退の前議は誤りだが、その警敏さを愛して用いた。魏公(張浚)の右に出る者は今日いない」と応じ、良翰は感激して謝意を表した。
- その後、両淮の防備撤去への深い後悔を孝宗が語り、太学生数百人が良翰・胡銓・王十朋の登用と思退の処刑を訴える事態にまで発展、思退は失脚した。
- 成恭皇后冊立時の外戚縁者の冗員(25人)を7人に減らすよう論じ、建寧府知事・福建転運副使・江東刑獄提点・浙西転運を歴任。兵部侍郎・右諫議大夫として「蜀漢の師で関陝を下し、荊襄で韓魏を趣き、江淮で青徐を襲うのが今日の大計」と論じ、荆淮担当の重臣配置を求めた。
- 給事中として、成閔の冒請・王抃の矯詔遣使などを弾劾し正典刑を求めた。太子詹事として、唐太宗と魏徴の仁徳功利論を踏まえ「本を務めれば効果は自ずと至る」と説き、天意に応じ民心を結び賢能を任じ小人を退け将帥を収め監司を択び吏を久任すべきと8弊の克服を論じた。享年65で薨去し、光宗即位後、諡を献肅とされた。