出自と諫言
- 呉芾は字を明可といい、台州仙居の人。進士に及第し祕書正字となる。秦檜と旧知の間柄だったが、旅の進退の礼を淡々と守ることで疑われ、風言に罷免された。処州・婺州・越州通判を経て、処州知事として丁絹の重い負担を新丁の割合で改めた。
- 監察御史として、金の敗盟の兆しに際し「高宗は徳を修め自ら悔いを痛感し、群臣に闕失を陳させ天地に無愧たれば人心も服す」と論じた。殿中侍御史として両淮の戦の不利の際「進むに上策なし、退くに策なし」と論じ、金主亮の死後、親征を勧め、建康駐蹕を主張して高宗はこれを容れた。
- 密啓による還東論に対し「臨安は建康の便に及ばない」と論じ、去歳の両淮諸城の潰滅を秦檜の言路壅塞・士気挫折の余毒と評した。
地方官としての実績
- 婺州知事、孝宗即位後の対上で唐の裴垍の対憲宗論を引いて「臨御の初めは心を正すことが最も重要」と論じた。金華長仙郷の義役の実践者を表彰し、郷を「循理里」「信義」と改称させた。
- 紹興府知事として攢宮(陵墓)関連の支移折変を免除、鑑湖の廃田復興を実現。刑部侍郎・給事中・吏部侍郎を経て、臨安府知事として内侍家僮の酒家保への傷害を市中で処刑した。使金の議で龍大淵の副使起用に反対し発言が漏れて罷免された。
- 陳俊卿と共に剛直で忌まれ提挙太平興国宮に出された。太平州知事として梁の姑溪の築堤に反乱した民衆を厚遇して鎮撫し、隆興府知事に転じた。前後6郡を治め各地の風俗に応じ寛猛を使い分け、姦民を許さず民に恵利を懐かせた。
晩年
- 再び太平祠を奉じ、龍図閣直学士致仕。10年後に卒去、享年80。「官物は己の物のごとく、公事は私事のごとく見よ。百姓に罪を得るくらいなら上官に罪を得た方がよい」と語った。朝廷に立つこと不遇で、晩年退閑14年、号は湖山居士。文は豪健俊整で、表奏5巻、詩文30巻がある。