宋史卷三百八十七 列傳第一百四十六 王十朋

王十朋は字を亀齢といい、温州楽清の人。秦檜死後の孝宗の親政策士で対策文が第一に抜擢された。監察御史・諫議大夫として史浩らの罪を弾劾し恢復論を唱え、地方官としても各地で善政を敷いた。享年60で卒去、諡は忠文。

年表(2件)

出自と対策文

  • 王十朋は字を亀齢といい、温州楽清の人。頴悟で日に数千言を誦し、梅溪で門下を集めて教えた。太学の主司はその文才を評価した。秦檜死後、孝宗が親政策士を行った際、封策で朝政を切直に論じるものを上位に置くよう命じ、十朋は「権」を論じて対策した(秦皇の衡石程書、隋文帝の彊明自任、唐徳宗の任せぬ宰相、唐宣宗の察を明と為すことを戒めとし、威福を上から出すべき)と論じた。
  • 捕翠の禁を犯す風潮や、往歳の権臣の子孫が科第を占める弊を指摘し、「陛下は正身を本とし賢を任じ広く公論を採るべき」と論じ、上はその経学・議論を高く評価し第一に抜擢した。上は嚴に金の捕翠禁令を厳守させ、交阯からの貢翠を焼いた。

監察御史・諫議大夫としての諫言

  • 紹興府簽判として書生と侮られたが判決は神のごとく的確で吏姦を許さなかった。祕書郎兼建王府小学教授として、旧例で教授が末席に座らされていたのを皇孫が特別に礼を加え、中座に位置づけさせた。
  • 金の渝盟の兆しに際し輪対で「建炎以来、金は内相残賊しつつも一主が斃れれば一主が生まれ、中国の利にはならなかった。禦敵の要は用人にあり、忠義材兼文武の者を起用すべき」と論じ、張浚・劉錡を暗に指した。
  • 「今、権は陛下に帰したが政は多門から出ている、これでは一檜死して百檜生ずるようなもの」と述べ、楊存中が三衙をもって北司と結び大権を盗んでいる現状を漢の恭顕、唐の藩鎮の禍に例えて警告した。
  • 諸軍承受の威福自恣、皇城邏卒の察事の弊、捕人為卒の弊などを指摘し、上に容れられて楊存中の兵権が解かれ、樞密管軍の班次も改められた。太学生が十朋ら5人を「五賢詩」で讃えたという。
  • 紹興31年(1161年)正月、風雷雨雪の異変に際し陳康伯に書を送り「陰盛を抑え天変を弭むべき」と諫めた。

孝宗朝の恢復論

  • 孝宗即位後、知厳州として起用され「太皇(高宗)は倦勤の時ではなく大器を陛下に付されたのは堯舜に勝る。陛下は太上に応えるべく社稷の安危・民の休戚・人才の進退・朝廷の刑賞を舜の堯に協うがごとく行うべき」と論じた。
  • 起居郎・侍御史として、北伐に際し「天子の孝は祖宗を光らせ社稷を安んずることにあり、成王・康王・文帝・景帝は前世の盛成を守り、高宗・宣王は衰微を興し、宣帝・太宗は讐を雪ぎ、少康・光武は讐を復した。靖康の禍を雪ぐべく、附和する私心を去るべき」と上疏した。
  • 史浩の8罪(懷姦誤国・植党盗権・忌言蔽賢・欺君訕上)を論じ、浩は紹興府に出された。史正志の傾険姦邪、林安宅の詐病求致仕なども弾劾し罷免させた。
  • 張浚の靈壁・虹県回復に際し「王師は弔民を主とすべきで招納が先、戦は後」と論じ、降将への速やかな爵賞を求めた。符離の敗戦後の異論に対しては、浚の忠義を擁護しつつも「今の師は祖宗陵寝・二帝復讎・二百年境土・中原弔民のためであり、前代の好大生事とは異なる。一衂で群議に揺らぐべきでない」と主張した。

地方官としての善政、晩年

  • 吏部侍郎を辞退し饒州知事として湖賊を鎮圧、丞相洪适の学基拡張要求も「先聖の居を私に与えることはできぬ」と断った。夔州知事に転じる際、饒の民が橋を断ってまで引き留めようとした逸話がある。
  • 湖州知事として水害後の統治にあたり、戸部の虚逋の請求にも動じず祠禄を求めた。泉州知事として貢闈を建設し、4郡の統治を通じ恩恵を施し、賢者を礼遇、租税徴収も民の自主的な計量に任せるなど信頼統治を実践した。
  • 各地で人々に絵に描かれ祠られ、離任時には老幼が涙して見送ったという。旱害の地に赴くと雨が降り、霖雨の地では晴れるなど、誠意が天地鬼神を動かしたと評された。
  • 太子詹事に召され足の病で拝謁も難しかったが、太子の厚遇を受けた。龍図閣学士致仕を願い出て命が下った日に卒去、享年60。紹興3年(1193年)諡は忠文。孝行と友愛に篤く、諸葛亮・顔真卿・寇準・范仲淹・韓琦・唐介を自らの範とした。子の聞詩・聞礼はいずれも学に篤く家法を守った。