宋史卷三百八十七 列傳第一百四十六 汪應辰
汪應辰は字を聖錫といい、信州玉山の人。紹興5年(1135年)わずか18歳で進士第一人となる。秦檜の和議推進を批判して左遷・隠遁を経験し、檜死後に朝に戻ってからは孝宗朝で四川宣撫の要職を歴任した。剛方正直で敢言、淳熙3年(1176年)家で卒去した。
出自と初任
- 汪應辰は字を聖錫といい、信州玉山の人。幼くして凝重、5歳で読書し対句を作り、貧しい家で薪を拾い燈油に代えて学んだ。10歳で詩を作り、郡博士に韓愈の故事を挙げられると「仲尼は3000人の弟子で道を論じた、私もそうありたい」と答えた。
- 冠する前に郷挙で首位、礼部試でも高選、趙鼎に館塾で重んじられた。紹興5年(1135年)進士第一人、わずか18歳。廷試で治要を問われ「至誠を本とし、人主が反省すること」と答え、老成の士と思われるほどの内容であったため、上は驚いた。
- 元の名「洋」は上意にそぐわないとして「應辰」と改名された。趙鼎の勧めで鎮東軍簽判として外任を経験、殿試第一人の待遇を破って一年半の欠を経て任地に赴いた。喩樗・張九成に学び学問を深めた。
秦檜への直言と隠遁
- 祕書省正字として、秦檜の和議推進・王倫の使還報告を受け、「和議が成らないことより、成った後の無備が畏るべきで、異議が絶えることより上下相蒙(欺瞞)が畏るべき」と上疏。秦檜の不興を買い、建州通判に左遷され、祠禄を求めて常山の永年院に隠遁した。
- 貧窮の中で修身講学に努め、3度崇道観を管勾。張九成の謫居中も交際を絶やさず、その父の喪にも千里を厭わず弔問した。袁州通判として吏の及ばぬ才を示し、趙鼎の死去に際し祭文を作って弔った。この祭文をめぐり衢州知事の章傑が檜に阿って冤罪を仕立てようとしたが、胡寅の取り成しで事なきを得た。
孝宗朝の政務、四川宣撫の職
- 檜死後、吏部郎官・右司を経て婺州知事として逋負を蠲免。祕書少監、権吏部尚書として李顯忠の冒功を弾劾。権戸部侍郎兼侍講として財政の冗費(班直転官・工匠洗澤器皿・塑顯仁神御などの過大な経費)を指摘し是正させた。
- 金渝盟後の足食足兵策を陸贄の言を引いて論じ「軍政の不修が問題」と説いた。建儲問題(孝宗の名の改称)、改元、太上尊号などの朝廷の重要儀礼を数多く定めた。「光堯」の号を巡り高宗の不興を買ったが議論を貫いた。
- 福州知事、四川制置使知成都府として蜀に赴任。免利路民餉運、沿辺戍兵の内郡就糧、保勝義士の復業、左藏の解約200万の準備などを実施した。呉璘の主張した梁洋金房路の危険な移送計画に王十朋と共に反対し中止させた。
- 二税勘合の増額提案に反対し、実質的な増税を防いだ。璘の死後、宣撫の職を摂り、蜀道を安泰に保った。虞允文の宣撫四川就任後も制司の存続を求めたが許されず、匿契税の弊(妨農・縦吏・違法・長姦)を指摘し是正させた。
- 蜀の大旱に際し、給付米による救荒策を献じ、度牒400を得て救済にあたり、劉珙にも「汪応辰・陳良翰・張栻の才は私の及ぶところではない」と評された。卭の安仁の盗賊を密かに討伐し、その手柄を虞允文に疑われる事件もあったが証拠を示し允文は恥じ入った。
吏部尚書としての諫言、晩年
- 吏部尚書兼翰林学士并侍読として愛民の6事を論じたが議が合わず不満を買った。陳良祐との対話で誤解が生じ、「私が蜀にいたとき誕謾を語った」との讒言を疑い、上に問い質した。
- 徳寿宮の池普請での水銀購入問題で高宗が「汪尚書の家から買った」と冗談を言い、孝宗が「卿が房廊での利を戒めながら自ら水銀を売るのか」と怒る誤解も生じた。応辰は辞去を強く求め、発運均輸の詔の弊害を論じきった上で端明殿学士知平江府に転じた。
- 韓玉の揀馬視察で応辰が簡略な礼で応じたことを恨まれ讒言され、上は疑いを持ったが、実際には平江の米綱の折閲が問題であった。病により祠禄を請い、淳熙3年(1176年)2月家で卒去。
- 応辰は人に接するに温遜、事に処するに毅然として動じなかった。嶺嶠に17年流落し、檜死後朝に戻った。剛方正直で敢言、呂居仁・胡安国に学び張栻・呂祖謙に深く許された。克己の実践を重んじ、友愛篤く先祖伝来の田を兄に譲った。子の逹は進士に及第し吏部尚書端明殿学士に至った。